西城秀樹、「恋する季節」以来の全87曲
「HIDEKI UNFORGETTABLE」

   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   この話は何度か書いているのだけれど、1970年代の音楽業界には"あっち側・こっち側"と言われていた二つの流れがあった。

   乱暴に言ってしまえば"演歌や歌謡曲、アイドル"と"フォークやロック、ニューミュージック"という流れである。それぞれが交流もなく張りあうように活動していた。

   具体的に言えば、筆者が仕事をしていた文化放送も"演歌歌謡曲班"と"フォークロック班"に分かれており会社のフロアーも違っていた。関わっている放送作家やスタッフも重ならない。番組で流れる曲や出入りするレコード会社の担当者も同じではなかった。

   それが、お互いにとってどういうことだったのか。去年(2018年)、西城秀樹が亡くなったことで改めて考えさせられている。

「HIDEKI UNFORGETTABLE」(ソニー・ミュージックダイレクト提供)
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吉田拓郎との少なからずの縁

   それは本人には何の関係のないことだったと思う。それが良かったか悪かったか、ということでも全くない。そういう時代だった、としか言いようがない。

   2019年5月16日、彼の一周忌に合わせてこれまでの全てのレコード会社から出たシングルA面曲を集めたCD+DVD BOX「ALL TIME SINGLES SINCE1972・HIDEKI UNFORGETTABLE」が出る。1972年3月25日発売のデビュー曲「恋する季節」に始まる全87曲にボーナストラック。CD5枚に収められた軌跡は、彼がどういう存在だったかを物語っていた。

   前述の"あっち側""こっち側"を"職業作家"と"シンガーソングライター"と言い換えることも出来る。西城秀樹は"あっち側"のスターだった。作曲家で言えば、筒美京平、鈴木邦彦、馬飼野康二、三木たかし。作詞家では、たかたかし、安井かずみや阿久悠と言った人たちである。第一線で活動する職業作家が"ロックと歌謡曲"という大命題に取り組んでいる。絶唱型と言われる独特の激しい歌を生かすために工夫を凝らしている。当時の歌謡曲では聞けなかった情熱的な台詞もそんな一例だろう。しかも時代によって彼の年齢的な成長に合わせてラブソングの質も変化している。

   そうした中にシンガーソングライターと呼ばれる人たちの曲が登場するのは80年にオフコースの「眠れぬ夜」をカバーした時と、82年に作詞・松本隆、作曲・吉田拓郎というコンビで作られた「聖・少女」くらいだろう。

   西城秀樹が吉田拓郎と少なからず縁があったと知ったのは、90年代に入ってからだった。

   彼は広島の出身である。小学校の時からバンドに参加、小学生ドラマーとして知られ、中学の時には吉田拓郎が当時組んでいたR&Bのバンド、ダウンタウンズのライブも見に行っており、彼らと同じように岩国の米軍基地でライブも行っている。71年のレッドツェッペリンの広島公演にも参加。そのコンサートには予備校生の浜田省吾も客席にいた。

   もし、当時、"あっち側・こっち側"のような区分けがなかったら、どんな存在になっていただろうと思うのは、そうした経歴もある。

   そして、彼はもっと語られるべきなのではないだろうか、と思うのは彼のライブでの功績があるからだ。

「つま恋」の前に3万人野外コンサート

   彼は、74年から10年間、大阪球場でのライブを続けている。野球場が最初にコンサートに使われたのは、ザ・タイガースの後楽園球場である。ソロアーティストの球場コンサートとしては西城秀樹が最初だった。ソロの武道館公演も75年の彼が初めてだ。武道館を経由しないでのいきなりの球場コンサートがどれだけ大変だったか想像するのはたやすい。10年間続いた野外コンサートは80年代後半からの渡辺美里の西武球場と南こうせつの「サマーピクニック」くらいだろう。それより10年以上前だ。

   75年には富士山特設野外ステージで3万人を集めた野外ライブを行っている。吉田拓郎とかぐや姫の「つま恋コンサート」の2週間前だ。しかもその時の全国縦断ツアーのファイナルが大阪球場だった。その模様は5月16日にWOWOWで放送される当時のドキュメンタリー映画「ブロウアップ・ヒデキ」に残されてはいる。でも、それだけの規模のライブの全貌や事実関係が十分に記録されているとは到底言い難いのではないだろうか。

   なぜ改めてそんなことを書いているかというと、かなりの忸怩たる思いもあるからだ。そうしたコンサートを取材していたのは芸能週刊誌やテレビが主体だったはずだ。音楽雑誌もまだ数えるほどで"あっち側"のメディアしか取り上げていなかった。ラジオもそうだったと思う。筆者も見ていない。

   今更、そんなことを言っても始まらないのだろうが、本来同じ流れの中で語られるべきことにも関わらず、そうなっていなかった。

   2012年の40周年の時に「絶叫・情熱・感激」というCD+DVDの5枚組BOXが出ている。発売元のソニー・ミュージックダイレクトの担当者が、ブックレットで「自分が隠れヒデキ」であることをカミングアウトしていた。

   彼は岡山の中学生の時にテレビで見た西城秀樹の情熱的な歌いっぷりに衝撃を受けてファンになった。でも、当時は学校でも吉田拓郎やユーミンが主流で男の子が好きとは言いにくい時代だった。大学に入って放送研究会に入ったらなおさらで、周りはニューミュージックや洋楽ファンばかりで「アイドルが好き」などと言おうものなら冷笑されるだけだった、と明かしていた。もし、彼がロッカーとして認知されていたら"隠れず"に済んだかもしれない。

   今はどうなのだろう。

   日本のロック史の中での西城秀樹という視点はどのくらいあるのだろう。

   もう"あっち側"も"こっち側"もない。

   伝説は語られてこそ伝説になる。

   それは"隠れヒデキ"も含めて、残されたファンが綴るべきものなのではないだろうか。

(タケ)

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