誰が名付けたか「熊」の愛称 ハイドンの交響曲第82番

   今年の日本は、気温の乱高下が激しく、暖かくなったと思ったらまた冬に逆戻り・・というような「極端な三寒四温」で春がやってきましたが、暦が立夏を過ぎて、ようやく冬の気配はなくなりつつあります。暖かくなると動植物も活動を始めますが、近ごろは、人間の住む近くで熊が目撃されることも多く、冬眠が終わるこのシーズンは気を付けなければなりませんね。キャラクターとしては可愛く描かれることの多い熊ですが、その強さは、到底人間が素手で立ち向かえるものではありません。

   実は恐ろしい「熊」・・・を愛称としているクラシック曲があります。古典派の作曲家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第82番です。

 
ハイドンの肖像
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パリに行かずに曲を書き上げる

   ハイドンの時代の音楽家は、王族や貴族、または教会に召し抱えられるのが当たり前でした。ハイドンも、30年以上の長きにわたってハプスブルグ帝国のハンガリー系貴族、エステルハージー家に楽長として仕えたのですが、在職中も、まったく他の依頼を受けない、というわけではありませんでした。作曲、指揮、楽団員の取りまとめなど、宮廷楽長として多忙を極めたはずですが、ハイドンの創作意欲は旺盛で、彼の名前が知れ渡ってくるにつれ、欧州各地からの依頼が舞い込むようになります。ハプスブルグ帝国の首都であるウィーンの出版社や、遠くロンドンの出版社からも作曲依頼がありました。ハイドンは「ダブルワーク」をしていたわけですが、それだけ、ハイドンの新たな作品は「売れる楽譜」と考えられていたわけです。

   そんな中、パリのアンサンブル団体から、作曲の依頼が舞い込みます。現在でもフランスの海外県として存在しているグアダループ島出身のヴァイオリニスト、ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュがコンサートマスターを務めるコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックという楽団からでした。この管弦楽団は当時としては異例の大きさを誇り、時には現代のフル・オーケストラに匹敵する人数で演奏したと伝えられています。

   その大規模なアンサンブルから、一挙に6曲もの交響曲の依頼を受けたのです。

   ハイドンはまだエステルハージー家に仕えていますから、パリに行くことはできませんでした。当主が代替わりし、音楽に興味を示さなくなり、ハイドンがきっぱりと職を辞するのはもう少しあとです。辞職してからは、遠くロンドンにも足を運んだハイドンですがパリからの依頼には、フランスを全く訪ねずに、オーストリア・ハンガリーの地で、ハイドンは曲を書き上げたのです。こうして完成したのが、現在「パリ交響曲」と呼ばれる 交響曲 第82番~第87番です。

   創作意欲にあふれ、かつ技術も経験も豊富なハイドンは、素晴らしい交響曲たちを生み出しました。のちのベートーヴェンほどの「大改革」はせず、古典派交響曲のスタイルは守っているものの、それぞれに工夫が凝らされ、片時も飽きさせない工夫にあふれています。またハイドンの持ち前のキャラクターである、活発な明るさにあふれているのも、このころの作品の特徴です。

 

出だしが特徴的な低音の繰り返しを伴うパッセージ

   ハイドンは、自分の曲にニックネームは一切つけていません。つまり、この交響曲第82番の「熊」という愛称も、だれか別人がつけたのですが、由来ははっきりとはわかっていません。しかし、第4楽章の出だし部分が、特徴的な低音の繰り返しを伴うパッセージとなっていて、それが、熊が歩いている様子を髣髴とさせるとか、パリの大道芸などにもみられる「熊使い」の音楽に似ているだとか、言われています。聞いたら耳に残るこの特徴的なパッセージは、おそらく、ハイドンが、パリの大管弦楽団・・・特に弦楽器パートが充実していたそうです・・・での演奏を想定して、工夫を凝らしたものかもしれません。彼の仕えていたエステルハージー家の楽団は、小編成のささやかなものだったので、遠く離れた大都会パリの華やかなアンサンブルを想定して、彼は勇躍、この壮麗な第4楽章を作曲したとしても不思議はありません。

   確かなことは、フランスで、この交響曲のピアノアレンジ版が出版されたときに、楽譜に「熊のダンス」と記されていたということです。出版社が、売り上げを少しでも上げるために勝手に名付けたのかもしれませんが、もともとハイドン人気は高く、彼の曲の楽譜は、たとえそれがアレンジであっても「売れる」と見込んでいたとも言えましょう。

   それ以来、この快活な交響曲は、ハイドンの意思とは関係なく、親しみを込めて「熊」と呼ばれています。

本田聖嗣

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