巴里のオムレツ 角田光代さんは石井好子の文に舌を巻き、よだれを飲む
dancyu 5月号の「私的読食録」で、角田光代さんが、石井好子(1922-2010)の随筆集『巴里の空の下 オムレツのにおいは流れる』を採り上げている。掲載誌の今号は「たまごデイズ」と称して卵料理を特集しており、角田連載もタイアップした格好だ。
「申し訳ない、というか、恥ずかしいようなことなのだけれども、私は石井好子さんという人を、シャンソン歌手ではなくて、エッセイストとして認識している」
こう切り出した角田さん。彼女の中では、石井の名と著書「巴里の空...」は断ちがたい関係になっているらしい。なにしろ、石井好子という文字面を見ただけで「おそろしいことに、熱されたバターと卵のにおいまで、幻臭として嗅いでしまう」のだ。
ジャズ歌手だった石井は1952年に渡仏、シャンソンを修業した。「巴里の空...」はフランスでの食生活を記したもので、60年代初めに「暮しの手帖」に連載、63年に同社から単行本で出版された。タイトルは映画「巴里の空の下 セーヌは流れる」(Sous le ciel de Paris)のもじり。挿入歌もよく知られる。随筆家としてのデビュー作でもある同書は、絶版にならぬまま今日まで読み継がれるロングセラーである。
オムレツの話は、その最初に出てくる。
「こんなにもみごとに卵料理を描いた文章は、そうそうあるものではない。卵の本質、卵が卵として愛される所以が、まったくむずかしくない言葉で、さらさらと描かれていて、舌を巻く。舌を巻きつつ、よだれを飲みこむ」
尋常ならぬ「たまご愛」
作家がそこまで言うからには、原著をあたるのみ。石井は書名にもなったその随筆で、大家のマダムが夕食に焼いてくれたオムレツをこう描写している。
〈オムレツは強い火でつくらなくてはいけない。熱したバタにそそがれた卵は、強い火で底のほうからどんどん焼けてくる。それをフォークで手ばやく中央にむけて、前後左右にまぜ、やわらかい卵のヒダを作り、なま卵の色がなくなって全体がうすい黄色の半熟になったところで、片面をくるりとかえして、火を消し、余熱でもう一度ひっくりかえして...〉
レトリックや比喩など、文章上の技巧とは無縁の、レシピのような実用的記述が続く。
それにしても、これにグッとくる角田さんの「たまご愛」は相当なものだ。
「出汁と合うのが好き、塩と合うのが好き、醤油とも、ソースとも合うのが好き。それより何より、温泉卵にしろ味付け卵にしろ、何かの料理に卵がぽんとのっている、あの幸福感がいちばん好きだ。卵の持つ圧倒的な平和が好きだ」
石井エッセイには、卵のそうした魅力のすべてが描かれており、「読むたびしあわせに、平和に支配される」そうだ。そして、卵の品質や調理法がとりわけ日本では進化し、パリよりおいしいオムレツが東京で食べられるだろうとしたうえで、こう自問する。
「でもこの本が描くパリ人のように、食べることが人生の最優先事項になっただろうか」
命がけで食べているか
当コラム、図らずも2週続けて「パリと料理」の話になった。
角田コラムのタイトルは「卵、という完全無欠のしあわせについて」。私なら、読点を「卵という、」と新聞的に打つところだが、ここらがいかにも作家のセンスである。
それはともかく、角田さんは、日本人について「私たちは食べることを文化にしていないかもしれない」と書く。同感だ。もちろん和食は日本らしい繊細な文化だが、本能的な食欲と直結しているとはいいがたい。直結していないからこそ「上品」ではある。
世界一流の味が集結し、お金さえあればいくらでも美味しいものや珍味を入手できる東京、そして日本。その地で感じる、ある種の飢餓感がある。角田さんが書くように、我々は食べることを「人生の最優先事項」にしていない、すなわち食に対する日本人の淡白さ、欲のなさが、食べることを「文化」たらしめていないのではないか。単なる栄養補給や消費行動ではないけれど、最優先というわけでもない。
その点、食卓のフランス人を観察すると、全身全霊、全力で食べているのが分かる。親のカタキのように食材と格闘し、命がけで食べる。この点に関しては庶民もセレブも同様、私が知る限り、皿の上がフォアグラでもサラダでも、オムレツでも同じである。
冨永 格