慎重派ブラームスの「作品番号1番」 試行錯誤を重ねたピアノソナタ
クラシック音楽における作品番号・・ラテン語でOpus(オーパス)といい、Op.と通常は略記されるものですが、これは、その作曲家の「出版されて公にされた作品」に与えられるものです。ちなみにOpus は単数形で、複数形がOpera(オペラ)となります。
つまり、作品番号を与えられた曲は、その音楽家が世に公式に問うたものということができるわけです。作曲家だって修業時代はありますから、習作や、他人の模倣をしつつ作った初期の作品などには作品番号を付加せず、自分のオリジナルで、自信をもって発表できるものに作品番号をつけていくことがほとんどです。
今日はロマン派の作曲家、ヨハネス・ブラームスのOp.1 を取り上げましょう。「ピアノソナタ 第1番 ハ長調」です。
「ロマン派」の時代の作曲家
1833年、北ドイツのハンブルクに生まれたブラームスは、「ロマン派」と呼ばれる時代の作曲家です。それまでの構造がしっかりした「古典派」の時代から、よりロマンティックに、自由に楽想をめぐらすスタイルが定着した時代、主に、19世紀に支配的になったクラシック音楽のスタイルですが、ブラームスが「ロマン派」の時代の作曲家であるということは、もう一つ重要な意味を持ちます。
19世紀は、産業革命が進行して、それまでの支配階級であった王侯貴族、宗教勢力のほかに「市民階級」が台頭したということです。彼ら市民が、より上流階級の楽しみであった「音楽」を暮らしに取り入れることによって、さまざまな変化が起きました。一つは、作曲家と独立した演奏家の誕生であり、宮廷や邸宅の部屋から演奏会場という巨大空間へ演奏の舞台が移ったこと、などがありますが、こと作曲家に関しては、「楽譜を販売して稼げるようになった」ということです。
それまでの「王侯貴族からの注文スタイル」から脱却して、「自分の書きたいものを書く」ことを始めた最初の一人は、間違いなくブラームスの敬愛する先輩、L.v.ベートーヴェンですが、彼でさえ貴族からの「年金」という名の事実上のパトロン料を受け取っていました。しかしその後、市民階級が「楽譜を買って音楽を家庭で楽しむ」・・・・これは、オーディオが発明されて普及する20世紀まで続きます・・・ことを覚えたため、ブラームスの活躍した時代には、「作曲家が作曲して、出版して生計を立てる」ということがごく当たり前になりつつあったのです。同時に、その作曲家は、「偉人として崇拝の対象になる」という現象も生み出しますが、これもベートーヴェンなどの先人たちの蒔いた種が実ってきた、ということが言えるかもしれません。
生涯「石橋をたたいて、さらに渡らない」性格
19世紀前半の欧州は、ナポレオンに引っ掻き回された後の混乱で、ブラームスも幼いころは大変に苦労します。ベートーヴェンも、アルコール依存症の父親に代わって若いころからピアノを弾いて稼いでいますが、ブラームスも酒場のピアノ弾きとして、10代前半から家計を支えていました。
ピアノを弾くだけでなく、若いころから作曲も始めていたブラームスですが、彼の「Op.1」であるピアノソナタ第1番は、19歳のころ作曲した作品です。もちろん、これ以前にも、ブラームスはたくさん自作曲を作っていましたが、それらほとんどは箱にしまわれ、そのあと壁紙としてハンブルクの家の壁や天井を飾った後、自らの手で焼却処分としていました。それほどまでにブラームスは、自作の発表に対して慎重だったのです。彼の「石橋をたたいて、さらに渡らない」というような性格は、彼の生涯を貫きます。
実は、ピアノソナタ第1番も、最初のピアノソナタではなく、「第4番」と書かれた筆跡が消されたとおぼしきあとがあります。さらに、作曲の途中で行き詰まり、現在「第2番」となっているピアノソナタがその間に着手されたということも分かっています。彼は試行錯誤を重ね、推敲に推敲を重ねて、ピアノソナタ第1番を、出版する最初の作品としたのです。
実際、それ以前のブラームスの作品を知る、盟友でヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムなどは、もっとたくさんのブラームスの作品リストを持っていたようですが、その中でブラームスが出版に値するとした作品は、わずか数曲だったのです。
しかし、この慎重な性格ゆえ、ブラームスは、「ぶれない強さ」を身に着けていたのです。このピアノソナタが、ブラームスの尊敬する先輩作曲家、ロベルト・シューマンの目に留まると、シューマンはその才能に感激し、彼が活発に批評活動を行っていた雑誌で、「新しき道」と題する記事を書き、ブラームスを大いにほめたたえたのです。
「突然やってきたフィーバー」に飲まれることなく
それまで、作曲家としては全く無名だった若きブラームスに、突如スポットライトが当たることになります。具体的には、音楽出版社が、この若き青年の作品をなんでも出版しようと提案してきたのです。
ブラームスは慎重な性格なゆえに、出版する作品をさらに厳選し、以後の作品も年には念を入れて作り上げることになります。そのおかげで、「突然やってきたフィーバー」に飲まれることがなく、活動拠点を、音楽の都ウィーンに移してからも、「ベートーヴェンを継ぐ才能」と世間から評価される大家となってゆくのです。
ブラームスの時には臆病なぐらいの慎重さは、彼の音楽と、生涯を決定づける大きなアドバンテージだったのかもしれません。
ピアノソナタ第1番も、第2楽章に、古いドイツの民謡の旋律などを入れる、という試みも行いながら、全体としては、それまでのドイツの伝統的なソナタ・スタイルを守り、見事に壮大なソナタになっています。彼が世に問うてもよい、と判断した最初の作品、新年度のこの時期に聴いてみたくなります。
本田聖嗣