海苔かまぼこの深さ 平松洋子さんがこだわる「手抜き」の妙とは?
GINZA3月号の「小さな料理 大きな味」で、エッセイストの平松洋子さんが「海苔かまぼこ」への愛を連ねている。かまぼこに焼き海苔を巻いただけの、料理とも呼べないような一品ながら、平松さんはそこに「剛速球のエネルギー」を感じるという。
「かねがね思っていることなのだが、『手抜き』という言い方には抵抗がある...自分で『これ、手抜き』と申告すると卑下している感じだし、誰かに『手抜きだね』と言われれば責められている気分。考え過ぎでしょうか」
この冒頭、「手をかけたものがおいしい」という思い込みに今から逆らいますよ、という準備運動、大げさに言えば宣戦布告のようなものだろう。
「もちろん、長い時間ことこと煮込んだスープやシチューは、そりゃあおいしい。手間ひまと時間を費やした料理には、おのずと熱量があるから。でも、その反対、手間も時間もかけない直球の一品にも、剛速球ならではのエネルギーがある」
先回りして「そりゃあ...」と反論を封じ、いなし、読者を押したり引いたりしながら自分のペースに巻き込んでいく。手練れのテクニックである。
平松さんは「たしかに手はかかっていなくても、手を抜いたわけではまったくない。私の偏愛する海苔かまぼこは、そんな一品だ」と、核心に踏み入る。
白い肌に、黒い着物
厚めに切ったかまぼこに海苔を巻く。おろしたてのワサビを添えれば理想だが、「なに、なければ省いても問題ない」。包丁を使うのが面倒な向きは、かまぼこを手でちぎるのもアリ。口あたりに変化が出て、かえって面白いそうだ。
「黄金の組み合わせです。魚のすり身のおいしさ、それをおおらかに受けとめる海苔の懐のふかさ。何度食べても飽きないし、食べるたびにすごいなあと感嘆する」
同郷の食材二つ。それらの合体を「黄金」と呼ぶのはいかにも偏愛だが、ここまで読んできた読者はすでに平松さんの術中にハマり、疑問を差しはさむことはない。
「朝ごはん、晩ごはんにもうひと品欲しいなというとき。小腹が空いたとき。お茶漬けにもどうぞ。晩酌にさっと一品添えたいときも、これに頼っている。裏切られたことは一度もない」
ただし「間然するところのないぴっちりとした味わい」を得るには、かまぼこは上質のものを選ぶべし。良いかまぼこは、うどんや煮物に入れたり、細かく切って吸い物に散らしたりすると、なかなかいいダシが出るそうだ。なるほど。
「漆黒の海苔の着物を一枚まとうかまぼこは、ちょっと艶っぽい。それも好き」
かまぼこを白い柔肌に例えた末尾は、プロの修辞を今か今かと待つ読者へのサービスだろうか。
ひらがなの多い文章で
食にまつわる作品で知られる平松さんは、引用部分でもお分かりの通り、ひらがなが多い平易な文章が持ち味。私を含め、食い道楽の書棚には何冊か並んでいるはずだ。
かまぼこと海苔。シンプルな取り合わせには意表を突かれた。いや、それ自体は蕎麦屋の品書きあたりにありそうで驚きはない。それより、白と黒だけで一本書けるのかという意地悪な興味。生ギターひとつで2時間の舞台がもつのかと。さすがの筆力である。
手をかければおいしくなるわけではない。この、本作の隠れテーマには大いに同意する。雑味を排し、引き算の料理と言われる和食が典型だ。最たるものは生魚を切って並べた「だけの」刺身だろう。ゴマカシが効かないから、料理人は素材の産地や鮮度は当然のこと、包丁の切れ味、脇役の醤油やワサビ、器にまで気を配ることになる。
他方「足し算」の西洋料理でも、ブイヨンにバターや生クリームを加えたソースで素材を化けさせる伝統的なフレンチと、オリーブオイルで素早く仕上げるイタリアンなどは趣が異なる。どちらが美味いか、という話ではない。
平松さんが書くように、レシピが複雑なほど万人の舌が喜ぶわけでもない。料理には最上の、心を込めた「手抜き」というものがあるらしい。
冨永 格