平安の恋愛事情 大塚ひかりさんが説く、今も役立ちそうな深慮と大胆

   ハルメク3月号の「大塚ひかりのスキャンダルで読む百人一首」で、古典エッセイストの大塚さんが平安時代の恋愛事情をやさしく説いている。中高年向けの女性誌。その道の経験豊かな50代以上が主な読者層と思われるが、のっけから刺激的である。

「平安時代の貴婦人は夫や親兄弟以外の男に顔を見せませんでした。そのため古語で、男が女を『見る』というのは、セックスや結婚を意味します。はじめてセックスする時がはじめてまともに顔を見る時だったのです」

   え? 顔も見ずに恋ができるのか...そんな疑問に即座に応える大塚さんである。

「まず噂です。『あそこの娘は美人だ』とか『琴がうまい』といった噂を乳母や女房(貴族の家に仕える女性=冨永注)などから聞く...その姉妹や母親が相手方の女の家に仕えていたりするから。狭い貴族社会ならではの女房ネットワークです」

   こうしてビビッときた男からは、まず文(ふみ)が届く。女は、筆遣いや言葉、用紙のセンスから好悪を判断し、時には祭りなどのイベントで男の容姿を確認、返事を出すかどうかを決めるそうだ。男のほうも女側の召使にチップを渡し、垣根の間から覗いたりする。

   これを何度か繰り返し、ついに男が女のもとを訪れることになる。

「百人一首」の時代の恋愛は…
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そのまま母屋になだれ込み...

   しかし、いきなり会うことはできない。

   大塚さんによると、外に接する簀子(すのこ)から、女官らを介して廂(ひさし)の間、さらに母屋(もや)と段階を踏んでにじり寄り、母屋の几帳に隠れた女に近づいていく。

「女とじかに話せるようになったらしめたもの。そのまま母屋になだれ込みベッドイン...ということもある。こうして男が三日続けて通えば結婚成立。三日目の夜、女側で結婚披露の宴があります」

   当時はいわゆる「婿取り」が基本で、披露宴は女側の主催、出席者も女の親族だけだったらしい。男は女の家にしばらく通い、子ができたりすると独立して家を構えた。

   それにしても、噂や文面でしか知らない相手、せいぜい垣間見た程度でしかない異性と結ばれるというのは、リスクを伴う分、ちょっとした風雅ではある。

「現代にもこの手のことはあって、私の知り合いには、ブログでコメントをつけたのがきっかけで、二年間、ネットやメールを続けた果てに初対面で結婚を決めたカップルがいます...会わない時間が恋を育てたのです」

   〈みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ〉藤原兼輔

   この回に添えられたこの一首は、まだ会ったことのない女性を思う歌だという。

   詠み手の兼輔は紫式部の曽祖父で、娘の桑子は醍醐天皇に入内、章明親王が生まれた。

「『源氏物語』が醍醐・村上天皇の御代をモデルにしているのは、それが先祖の最も輝いていた時代だったからかもしれません」

誰かに話したくなる知識

   この種の作品は「ためになる随筆」とでも言うのだろうか。ふむふむと読み進めれば、現代にも通じる、誰かに話したくなるような雑学や蘊蓄がちりばめられている。

   私は、縁側を意味する「簀子」に始まり、「廂」から「母屋」という接近の手順に興味をひかれた。すぐ思い浮かべたのは、ジャーナリストと取材対象の距離感だ。もっぱら政治部記者と大物政治家、つまり多くは男同士の話だが、私邸で立ち入れる場には、玄関先→玄関わきの応接間→リビングという順序がある。その先の寝室まで入った猛者もいたと聞く。

   下心が求婚だろうが取材だろうが、生身の人間を相手に関係を深めるノウハウは、平安の昔から大して進化していないらしい。情報収集、周囲の懐柔、あとはマメに日参するのみだ。

   いかにも3月号らしい、なんともハルメク話である。

冨永 格

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