モーツァルトはもうひとりいた 偉大な音楽家を育てた教育者の顔
モーツァルトというと一般的には、ザルツブルグに生まれ、ウィーンでも活躍し、若くして亡くなった音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのことを指しますが、今日は、もう一人のモーツァルトの物語です。
大学を中退し音楽に打ち込む
彼の名はレオポルド・モーツァルト。ふつうは「モーツァルトの父」として、知られている人物です。彼はドイツ・マンハイムの出身で、実家は製本業者でした。のちにヴォルフガングが生まれることになる、現在ではオーストリアに含まれるザルツブルグにやってきたのも、哲学や法学を大学で学ぶためでした。ザルツブルグは当時大司教領で、神聖ローマ帝国内にあっても、独立の気風がみなぎっていました。彼のドイツの両親は、レオポルドをカトリックの司祭にしたがっていた、とも伝えられていますから、留学地として、ザルツブルグはふさわしかったのかもしれません。
結局、残りの人生全てをザルツブルグで過ごすことになったレオポルドですが、親が望んだ司祭にも、哲学者にも、法律家にもなりませんでした。あまりに出席が少なくて大学を退学しますが、それは彼が怠けていたわけでなく、新たに熱中するもの――音楽に打ち込んでいたからです。大学を中退したその年に、帝国内の飛脚便を請け負って巨大な財を築いていたトゥルン=ヴァルサッシナ・ウント・タクシス家のお抱え音楽家として就職します。「学士」ならぬ「楽師」になってプロデビューしてしまったわけです。
楽器としてはヴァイオリンが得意だったレオポルドは、その後、ザルツブルク宮廷の副楽長まで上り詰めますが、作曲家としてよりも、演奏家、そして教育者として活躍します。
ザルツブルク近郊出身のアンナ・マリアと結婚し、7人の子供が生まれたものの、この時代は乳幼児死亡率が高く、成人したのはわずか2人、姉のナンネルと、7番目の弟、ヨハネス・クリストムス・ヴォルフガング・テオフィリス・アマデウス・モーツァルトのみでした。
そのヴォルフガングの才能に気づいて早くから英才教育を施し、歴史に名を遺す音楽家に育て上げたことで、彼自身も有名になりました。
教育者としては当時から有名で、ヴォルフガングが母とパリを訪れた時に、父のヴァイオリン教本がフランス語に翻訳されて販売されているのを見つけて、嬉しそうに手紙で知らせています。
新旧2つの「ランバッハ交響曲」
まだまだ2人の子が小さかった1769年、ヴォルフガングはまだ13歳の時ですが...子供たちを伴って、「音楽家としての売り込み旅行」を行っていたレオポルドは、ウィーンを襲ったペスト禍を避けるために一旦現在のチェコに避難しました。しかし結局子供たちはその地で罹患し、からくも2人とも病気より回復したあと、長年の旅路の疲れをいやすためもあり、故郷ザルツブルクに向かいます。ザルツブルグまであと80キロの地点、ランバッハのベネディクト派の修道院に宿泊し、そこで親子は、それぞれ交響曲を奉納したのです。はるかにのちの時代の1923年に筆写譜が発見され、表紙に「W.A.モーツァルト氏の作品」「L.モーツァルト氏の作品」と書いてあったので、それぞれ「旧ランバッハ交響曲」「新ランバッハ交響曲」と名付けられました。
ところが一時期、音楽学者の提唱によって、それぞれは表紙と逆で、より古風な形式で書かれている「旧ランバッハ」のほうが父レオポルドの作品、「新」のほうが、ヴォルフガングの作品とされた時代もありました。モーツァルトほどの作曲家になりますと、「全作品集」というような楽譜も企画されますから、そのたびに、曲が入れ替わったのです。
しかし、現在では、再び、「旧」のほうは、少年モーツァルトが、様々な形式を吸収するためにあえて書いた古風なシンフォニーで、「新」のほうが、表記通り、父レオポルドの作品ということで落ち着いたのです。同じト長調の交響曲を親子そろって、旅の途中の修道院に献納する、という行為があったことで、レオポルド・モーツァルトの交響曲が後世に伝えられることになりました。息子モーツァルトの作品と響きが似ている個所もたくさんありますが、やはりどこか違って単調に聴こえるような気がします。それでも、作曲家としては大成しなかった「父」の貴重な作品です。
本田聖嗣