すぐそこにある「恐るべき未来」にどう備えるか
■『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著) 河出書房新社
今年(2018年)3月、碩学として高名なスティーヴン・ホーキング博士が亡くなった。
「死せる孔明」の例ではないが、博士は10月に公となった遺作エッセイにより、死後なお議論を巻き起こした。遺伝子工学の進歩により、近い将来、superhumanすなわち「超人」が誕生し、他の人類を根絶やしにするおそれすらある、というのである。
さて本書は、全世界でベストセラーとなった『サピエンス全史』の続編であり、そのメッセージの一部は、期せずしてホーキング博士のこの予言と重なっている。
本書のタイトル、ホモ・デウスはすなわち、ホモ・サピエンスが人為的な操作によって神の領域に近づく超人となる、との趣旨である。
外れてほしい未来予測
未来予測は、常に不確実なものである。
だが著者・ハラリ氏の筆にあっては、迫真の説得力を以て近未来が迫ってくる。残念ながら、その未来は決して明るいものではない。予測が予測として外れてほしいと願いたくなるが、外れるであろうという論証は、評者にはほとんど不可能とすら思える。本書を読むと、人間活動には地球温暖化以外にも「不都合な真実」がいくつも生じており、これが加速している印象さえ覚える。
ではその具体的内容はどうか。
本書の主張を要約してしまうことは(評者にその力量がないことは措くとして)、著者・読者双方に失礼であろう。本書が展開する論旨と結末それ自体、良質のミステリー以上と評するべき興趣を抱かせるからである。
だとすれば、全体を迂闊にまとめることなく、一部を引用することは許されるであろうし、本書がいかなるものであるかを伝えるには、著者自身が語る言葉が適当と思われる。 例えば以下の一節である。
「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。
とはいえ、新たな形で考えて行動するのは容易ではない。なぜなら私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けているからだ。本書では、その制約を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ。」(本書下巻P244)
警世の書と後世の評価
冷徹な観察と人類存在の徹底した相対化が異色の歴史ストーリーに結実したのが前著『サピエンス全史』であった。上記引用から分かるように、本書は、その『サピエンス全史』をプロローグとして、人類の未来の選択肢を例示し、現代社会に軌道修正、より大胆には革命を求める警世の書と思われる。
本書もすでに400万部を超える売り上げと聞く。著者の巧みな表現力が、そうした警鐘を広く世界中に知らしめているとすれば、本書はその実質のみならず手段もまた極めて秀逸な書籍と言うべきだろう。
同時に、氏が前著で歴史学に人々の「幸福」という尺度を導入したことも、本書の伏線であったと読むことができる。キリスト教やイスラム教さらには自由主義といった信条をも厳しく相対化しながら、氏が仏教や瞑想に対して一定の積極的な評価を下しているらしきことも、「幸福」探しをしている現代人には興味深い寄る辺となるかも知れない。
恐るべき未来がすぐそこにあるからこそ、そこに生じるであろう数多の弊害を除去する備えは今から必要である。己を取り巻く制約条件の一切を取り払うことは不可能であろうが、そう努めることによって、より自由な選択が可能となる。
往々にしてこうした警鐘は、結果的には悪い未来が生じた後に「あの警鐘者は慧眼であった」と、後悔とともに振り返られるものだが、ハラリ氏に対する後世の評価はどうなるであろうか。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)