吉田拓郎、ふたつの50年
広島フォーク村と深夜放送と
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
それは偶然そうなったということ以外の何物でもない。示し合わせてスケジュールが決められたわけでも、それぞれにまたがっている関係者がいたわけでもない。でも、わずか1日置いただけで行われた二つの「50周年パーティー」は、一つの時代を象徴しているという点で深い共通点があるように思った。
一つは2018年9月30日に行われた「広島フォーク村50周年同窓会」である。
「広島フォーク村」という名前はご存じない方がほとんどだと思う。そういう地名があるのでもなければお好み焼き屋さんの名前でもない。
50年前に広島で発足したそういう団体があった。
「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(フォーライフミュージックエンタテイメント、アマゾンHPより)
関東でもない関西でもない
すでに何度か触れてきているように、60年代の日本のフォークソングには「関東と関西」という二つの流れがあった。
フォークソングがアメリカの学生たちの間でブームになったのは1950年代の後半。商業主義に乗らない埋もれた民謡を発掘しようというムーブメント。その中から脚光を浴びて行ったのがキングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリーや、ブラザース・フォア、そして、ボブ・ディランなどである。
彼らの曲を英語のままコピーすることから始まったのが関東の学生たちで、そこにオリジナルの歌詞を載せてメッセージを歌うようになったのが関西の学生たち。前者には小室等や森山良子、後者には高石ともやや岡林信康がいた。
広島フォーク村はそのどちらにも属さない自由な団体だった。68年12月に広島青少年センターで行われた第一回のコンサートのパンフレットに「村長」の広島商大生、伊藤明夫はこう書いている。
「この村は自由な場所です。音楽表現の形式も自由です。みんなが自分の意見や主張をぶっつけあってより充実させるつもりです。これから先、フォーク村を地道に大きくしてゆきます。ギターを弾けなくたって、音痴だって、好きな人はどんどんこの楽しいフォーク村に入ってください。」
広島フォーク村は、当時、広島にあったいくつかの学生フォークソング団体をまとめる形で発足した。提唱したのが広島商大の吉田拓郎。前年、リズム&ブルースのバンドで全国大会に出場したもののプロへの道を進めなかった彼が、半ば遊びで始めたと言っていいかもしれない。彼の才能と人気はすでに広島では知らない者がいないという存在になっていた。
ただ、広島フォーク村イコール吉田拓郎だったかというとそうでもない。もちろんコンサートは彼を中心にして動いていたし、最盛時は500人を超えていたという会員の多くが彼に憧れていたというのも事実だろう。
でも、それだけではなかった。
「はかなく、せつなく、あやうい青春だった」
音楽を楽しむ。アメリカのフォークソングから関西フォークのようなメッセージソング、そして自分たちのオリジナル。夏休みの合宿や手作りのコンサート、バザールなどの催し物の企画、関西まで「巡業」もしている。今でいうイベンターのような団体としても機能していた。
被爆20年を超えて復興の足音が高まる中で広島の若者たちが音楽を通して自由を謳歌する場所が広島フォーク村だった。
そんな噂を聞きつけて東京からやってきた上智大学元全共闘の学生たちが作った企画会社、「フューチャーズ・サービス」の提案で作られたアルバムが70年3月に発売された広島フォーク村の自主制作アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」である。
東京でも大阪でもない音楽の舞台としては顧みられることのなかった街から生まれた学生たちのアルバム。その中で歌われていた「イメージの詩」がきっかけで吉田拓郎がデビューしたことで歴史に残る一枚になった。
ただ、広島フォーク村は、71年春には閉村してしまう。吉田拓郎がプロになり、村長の伊藤明夫が東京のレコード会社に就職して上京、主要メンバーがそれぞれの道を歩むようになって状況が変わった結果だった。
9月30日に広島のホテルで行われたのは「50周年同窓会」。古希に差し掛かった50人ほどの会員たちの演奏。一時期フォーク村とは距離を置いているように見えた吉田拓郎も当時を「はかなく、せつなく、あやうい青春だった」という長文のメッセージを送っていた。
その二日後、10月2日に東京のホテルで開かれたのがニッポン放送の「オールナイトニッポン50周年感謝パーティー」。参加者は500人を超えていただろう。ラジオの一番組の集まりとしては異例とも言える盛り上がりを見せていた。
「オールナイトニッポン」は1967年10月2日に始まり、60年代後半から70年代にかけてのラジオ深夜放送のブームの震源的番組。更に現在でも放送されているニッポン放送の看板番組である。
去年から始まった50周年企画のしめくくりのパーティーには、笑福亭鶴光、亀渕昭信、斎藤アンコー、宇崎竜童、高田文夫、小林克也らのLEGENDと菅田将暉、山下健二郎、AKB48の横山由依、オードリーからユーミンまでの現役パーソナリティー、元放送作家の秋元康までが勢ぞろいした。
様々なゲストが語る番組の思い出やエピソードは、いかに自由な番組だったかということに尽きた。パーソナリティーが放送中に酔っぱらっていた、ディレクターが番組を抜け出して彼女に会いに行っていたなど武勇伝は尽きない。そんな話にはそうやって破天荒な仕事をしていたスタッフが今は偉くなっているというオチがついた。
「自由」という共通項があった
深夜放送とフォークソングは密接な関連を持っている。不況のラジオが起死回生の策として「放送休止枠」を使う事で始まった深夜放送とそれまでの音楽に満たされなかった若者たちの「新しい自由な歌」。広島フォーク村の自主制作アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」は深夜放送と関わりの深かったエレックレコードから発売された。ニッポン放送とエレックレコードが主催していたコンサート「唄の市」は、その結びつきの表れだった。
エレックレコードでデビューし、80年代の「オールナイトニッポン」だけでなくTBS「パック・イン・ミュージック」と文化放送「セイ!ヤング」でもパーソナリティーを担当するなど「深夜放送全局制覇」の吉田拓郎は今もニッポン放送でレギュラー番組「ラジオでナイト」を持っている。
51年目を迎えて継続中の「オールナイトニッポン」と約2年半の活動で幕を閉じた「広島フォーク村」。「自由」という共通項があった。「オールナイトニッポン」の始まりのフレーズはこうだった。
「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を。青空の代わりに夢を」
あれから50年。変わったものと変わらないもの、終わってしまったことと受け継がれていること。吉田拓郎が広島フォーク村時代に作った「イメージの詩」の冒頭のこんな一節は、今もなお生き続けている。
「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか」--。
(タケ)