極限状態でも「言えない」こと 生存者の苦しみがそこにある
■『沈黙の叫び』(尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑建立事業期成会・編、南山舎)
沖縄戦で住民が集団自決したチビリガマという洞窟がある。昨年9月、ここで地元の少年らが肝試しと称して内部を荒らし破損する事件が生じた。
一報を聞いたとき、大戦はかくも遠くなったかと驚いたが、若い世代を中心に、我々はおよそ戦争を想像できない平穏の中にいるのは事実である。
本書を読み、惨禍を「知らない」ことの意味に思いを致して、少年らのことを改めて調べてみた。保護観察処分となった少年らは、ガマを修復・清掃するほか遺族会にレポートを提出したという。順調な更生であってほしい。
語られることのない、永久に知られざる真実
石垣島を出港し、台湾に向かっていた疎開船二隻が米軍機に攻撃され、一隻は火災を起こし沈没、残った一隻が尖閣列島の釣魚島に辿り着き、吹きさらしで食糧もわずかな絶望的な状況から奇跡的に帰還を果たした、というのが本書の事件のあらましである。疎開船の悲劇といえば対馬丸事件しか知らなかった評者は、幾重にも折り積み上がる犠牲をさらに知らされた思いである。
攻撃で斃(たお)れた方々、船上火災に巻き込まれた方々、波間に消えた方々、孤絶した島で力尽きた方々、そして帰還後に衰弱等で亡くなった方々。
戦争について学ぶと否応なく直視させられる犠牲者にも、それぞれ、生まれ育ち泣き笑いしてきた人生と、それをともにする家族があった。自らの家族に重ね合わせれば、このような最期がいかに残酷か、ある程度までは想像できよう。
しかし、どう足掻(あが)いても感得できない部分がある。証言の一部に表れる、「言わない」「言えない」事柄だ。伝えて頂けない以上、感得できないのは当然ではある。そうは言っても、銃撃を受けた、島にたどり着いた、食べ物がなく飢えた、との表層の奥底にある、極限状態の下で生起した「言えない」こととは、何であったか。
編集後記はこう記す。「言わない、言えない沈黙の部分にこそ本当の事件の姿がある...証言中あえてふれられていない部分に耳をすませて沈黙の叫びを聞いてほしい」。
無理を承知でこう書かざるを得なかった、生存者の苦しみがそこにある。
チビリガマの事件を起こした少年たちは、ガマで起きた悲劇を知らなかった。知らぬことそれ自体さえも非難されるのであれば、この「伝えられていない事実」を知らぬ我々は、少年たちとどれだけ違うだろうか。
戦争の教訓をどう生かすか
この犠牲はなぜ生じたか。疑問は二点だ。政府は国民を守ることに全力を尽くしたか。そして、米軍機はなぜ避難民を満載した船を敢えて攻撃したか。
これらの問いは、将来に向けた次の教訓を示唆すると思う。
教訓の一は、言うまでもない。国民を全力で守ることだ。
膨張主義的あるいは冒険主義的な他国への備えは、待ったなしである。だが抑止できず有事に至ったとき、沖縄でまたも犠牲が出ればどうなる。侵攻者の不法への強い批難を大前提としつつ、被侵攻側も、国民を守る力と意思を欠いて良いはずがない。
抑止に真に有効かつ的確な装備を欠けば攻撃を誘引しかねないが、装備増強に偏重して住民保護が疎かになれば疎開船の悲劇を再現しかねない。
八重山諸島にあって、旧軍は住民保護の名目で人々を山に避難させたが、これにより多くの住民がマラリアに罹患し命を落としたという。住民保護と防衛の両立に万全を期す冷静な議論が、戦後今ほど求められている時代はなかろう。
次に、戦争犯罪への姿勢である。
米軍機の攻撃は戦争犯罪だろう。敵機はパイロットの表情が見えるほどの至近距離まで近づいたとの証言からして、年寄りや女子供が乗った船と承知で撃ったとしか思えない。だが米軍の記録上これら疎開船は軍用船とされているという。
ここで相手国の責任を声高に追及しても情緒的な運動に堕するのみで、外交上得るものはなく有害でさえあろう。だが戦時国際法の順守について、平和主義を標榜する我が国は世界をリードしているか。個々の事件について、相手国が過ちを認めていける環境整備に配意しているか。原爆投下でさえ、誤りであったとする米国人の割合は増加傾向と聞く。遠い将来になるにせよ過ちを認めさせることは、困難ではあっても不可能ではあるまい。同時にその配意は、自身の影を見る鏡ともなろう。
かの大戦の反省を考え続けるのは昭和生まれの宿命であろうが、平成生まれの若者はどう思って生きていくのだろう。次の元号下でも、日本人は生まれてくる。
戦争の記憶を刻むことは重要だが世代を重ねれば風化は否めず、最も陰惨なはずの「語られない」膨大な事実が日の目を見ることもない。
恐ろし過ぎて語れなくなるほどの事態が生じるのが戦争だとすれば、人間の存在そのものが恐怖の対象となる。そうした人間の凄まじさを念頭に置けば、話し合いのみで平和が保てるとの主張は楽観に過ぎる一方、勇ましい好戦的な言動も軽率の誹(そし)りを免れまい。
想定外の事態への畏れを抱き、謙虚な態度を堅持すれば、自ずと極論は回避されるはずだが、実際はどうか。
本書行間の「叫び」に戸惑いつつ、まずはこう受け止めておく次第である。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)