「ほぼデビュー曲」が代表作に ラフマニノフの前奏曲「鐘」

   先週は天才モーツァルトの最晩年の室内楽作品を登場させましたが、今週は、ある作曲家のほぼデビュー作品を取り上げましょう。作曲家の名は、セルゲイ・ラフマニノフ、「ピアノ協奏曲第2番」などで有名なロシア出身の作曲家にしてピアニスト、そして曲は、Op.3-2の作品番号を持ち、「鐘」の愛称で知られる、ピアノのための前奏曲です。

「鐘」の愛称で広く親しまれている曲ではあるが、原典譜には「前奏曲」としか書かれていない
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モスクワ音楽院ピアノ科を首席で卒業、さらに作曲の道も

   ラフマニノフは、ピアニストでもありました。もともとピアニストとしての訓練を受け、作曲にも興味を持ったためピアノの先生と対立したこともあったものの、決してピアノをおろそかにするわけではなく、母校モスクワ音楽院を、まずピアノ科で、首席で卒業しています。ただし、同学年にスクリャービンというこちらもピアニストとして優秀で、後に作曲家としても名をとどろかすライバルがいたので、ほぼ同率一位、という成績だったのですが、若干ラフマニノフのほうが評価が高い、正真正銘の首席卒業だったのです。

 

   したがって彼のピアノの腕前は、その辺のピアニスト顔負けどころか、スーパー・ピアニストといってよいほどで、自作のピアノ協奏曲・・・現代でもプロピアニストにとってさえチャレンジングな曲目を自分で弾いて初演したりもしていますし、晩年、母国ロシアの革命を逃れて米国に渡った時も、作曲家としては活躍が狭まったものの、現役のピアニストとしては活躍できたため、経済的に随分と助かったこともあります。晩年は左手の指の痛みに悩まされましたが、それでも「生涯現役のピアニスト」で、幸いなことに数多く録音も残っているので、現代でもピアニスト・ラフマニノフの音を聞くことができます。

 

   そんな彼は演奏だけでなく、作曲にも興味を持ち、ピアノ科卒業の翌年、作曲科も卒業します。まだ若干19歳のラフマニノフでしたが、卒業とほぼ同時に作曲したピアノ曲が、5曲からなる「幻想的小品集 Op.3」でした。いわば自分の楽器であるピアノで、卒業したばかりのラフマニノフが情熱を込めた曲集だったわけですが、その2曲目が、今日の1曲なのです。オリジナルの題名は、ただ単に「前奏曲」というそっけないもので、他の曲が「エレジー(悲歌)」「道化役者」などと名付けられているのに比べて、特段思い入れがあったようには思えません。ラフマニノフは、前奏曲とは、何か重要な曲がやってくる前触れ、その前に置かれる露払いのような曲の形式だと認識していて、その考えの通り、この「前奏曲」もシンプルな3部に分かれた形式で書かれています。

   ただし、曲の出だしは、右手と左手で、悲劇的な印象がする短調の音を3つ低音域のユニゾンで弾く、という重々しいパッセージで、その後、曲中で何回も何回も、この重苦しい低音のテーマが繰り返されます。そのずーんと響く音が、あたかもロシア正教の教会の巨大な鐘が、おなかに響くような音で打ち鳴らされている様子を想像させるからか、いつしかこの曲は「鐘」とか「モスクワの鐘」と愛称をつけて呼ばれたり、楽譜に副題として印刷されるようになったのです。

浅田真央がバンクーバー五輪で使用した曲

   実際この「幻想的小品集」の中でも、この「第2番 前奏曲」は飛びぬけて人気が高くなり、ピアニストとしても活動しつつあったラフマニノフは、演奏会のたびに、この曲をアンコールで弾いてくれ!という要望が引きも切らず寄せられ、さすがに嫌気がさしてしまうほどであったと伝えられています。

   その後、ラフマニノフは、ショパンなど先輩の作曲家が完成させた24の調すべてでの「前奏曲集」を作曲して完成させるので、題名がたまたま「前奏曲」であったにすぎない本来は「幻想的小品集の2曲目」であるこの曲は、前奏曲集の1曲との差別化を図るためか、ますます「鐘」と呼ばれるようになります。

   「鐘」の人気はさらに加速して、オーケストラの編曲バージョンも作られ、フィギュアスケートの浅田真央選手がバンクーバーオリンピックの時に使用したために、日本のスケートファンにも広く親しまれています。

   ラフマニノフには、まったく別の独唱と合唱による「鐘」という歌の曲集もあるのですが、現在、「鐘」というと、このピアノ曲...本来は「前奏曲」と名付けられていた、この曲を指すのが通例となっています。

   音楽院を卒業したばかりで、作曲家としても、ピアニストとしてもプロとしてこれから、というときに大ヒットとなったこの曲は、まさに彼の存在を世の中に知らしめる「鐘」となって大いに響いたのです。

本田聖嗣

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