吉田拓郎、夏のライブの主人公
「伝説」の最終章が始まる
「あの夏の日の思い出たち・3」
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
かって「ひと夏の経験」を歌って一躍トップアイドルにのし上がったのは15歳の山口百恵だった。
往々にして夏の出来事は一度きりだからこそ伝説になると言ってもいい。あの夏だからこそあった、あの夏にしかない思い出。それはその年限りだったからこそ希少価値的な輝きを放っている。
でも、彼の場合はそうではない。一度ならず二度三度。しかも、舞台となっているのが同じ場所ということになると異例というような表現でも不足だろう。唯一無比、語り継がれる「夏のライブ伝説」の主人公。それが吉田拓郎である。
「Forever Young Concert in つま恋2006」(テイチクエンタテインメント、アマゾンHPより)
「ウッドストックのようなイベントを」
福島の青年実業家が私財を投げうって行われた「郡山ワンステップフェスティバル」の翌年、それをはるかにしのぐ規模となったのが75年の8月2日から3日にかけて静岡県掛川市のヤマハリゾート「つま恋」多目的広場で行われた「吉田拓郎・かぐや姫・コンサート・イン・つま恋」だった。
出演は吉田拓郎、かぐや姫、南こうせつ、伊勢正三、山田パンダそれぞれのソロ、山本コウタローとウィークエンド。午後5時過ぎに始まり、翌朝4時半過ぎまで行われたオールナイトコンサート。観客は5万人とも6万人ともいわれている。
なぜそんなに曖昧な数字しか残っていないのか。
正確な数字を誰も把握していないというのが実態だった。
制作していたのは71年の秋の発足から四年目、吉田拓郎、かぐや姫、イルカ、ウィークエンドらが所属していたユイ音楽工房。東京から行ったスタッフはわずか20人足らず。5万人を超える大イベントを担ったということが信じられない少人数で始まった。26歳だった社長の後藤由多加を筆頭に彼らを突き動かしていたのが「ウッドストックのようなイベントをやりたい」という情熱だった。
後藤由多加は、その前にも日本で行われたことのない野外コンサートを企画している。会場は東京競馬場。出演は吉田拓郎。バックをつとめるのはザ・バンド。観客予定数は約8万人。彼はザ・バンドとの契約のために渡米もしている。計画が公になる前に流れてしまったのは、ザ・バンドがボブ・ディランのバックバンドに起用されツアーに出ることが決まったからだ。ボブ・ディランとザ・バンドのライブアルバム「偉大なる復活」としてロック史に残るツアー。再チャレンジとして企画されたのが「つま恋」だった。前例のないイベントに難航した会場探しの中で受け入れを表明したのが74年に開園したばかりの「つま恋」だった。
郡山ワンステップフェスティバルがそうだったように「つま恋」も様々な障害を乗り越えて行われている。たとえば当時のロックコンサートにつきものの「教育委員会」の反対があった。開催が近づくにつれて県条例を盾に18歳未満の参加を問題視するメディアが表れ、警察と教育委員会がそれに同調する。最後に鶴の一声的決断を下したのがヤマハ発動機の創業社長であり、当時のヤマハ音楽振興会の理事長、川上源一だった。
なぜ正確な人数が分からなかったのか
話を動員数に戻そう。
なぜ正確な人数が不明なのか。一つは、チケットの売り方があった。今のようなチケットシステムは確立されていない。プレイガイドに並んで買うという時代である。しかも場所は静岡県の掛川市。新幹線の駅はまだ開業していない。東京や名古屋、大阪など大都市のプレイガイドと東海道線沿線の県下のレコード屋や喫茶店での店頭での販売。スタッフが現金で回収するという方法しかなく、前売りは完売したということは分かりつつ、どこで何枚売れたかという正確な記録が残っていない。更に、消防など好意的でなかった関係各所に対して少な目な人数を申告することで波風を立てないようにするという配慮もあった。
反響のすさまじさは一週間前から「つま恋」周辺にテントを張るなどして野宿する観客が数千人を超え、前日には一万人が集まったことがその一例だろう。「ワンステップフェスティバル」のような長髪の若者中心ではない。若者たちに一番影響力を持っていた、時代の寵児が行う前例のないオールナイトイベント。そのエネルギーは比較にならなかった。
吉田拓郎は「演奏が始まってからのことはほとんど覚えていない」と言う。「この5万人が押し寄せて来たらどうなるんだ」という緊張感。71年の中津川フォークジャンボリーの当事者としては当然のプレッシャー。それは彼だけではない。筆者が見ていたのはステージ最前列とステージの間。撮影用のレールが敷かれている場所だ。取材関係者席がそこだった。何でそんな場所に集められていたか。もし、何かあった時にステージを守る要員になるためだったと知ったのは31年後2006年の「つま恋」でだった。
1985年に「つま恋」に戻る
吉田拓郎と夏のイベント。彼は79年に愛知県知多半島の篠島を借り切った「アイランドコンサート・イン・篠島」も行っている。人口2000人あまりの島に2万人を超える観客が集まるというオールナイトコンサートも前例がなかった。
「つま恋」に再び戻って来るのは85年の夏だ。7月27日から28日にかけての「ONE LAST NIGHT in つま恋」。「70年代に幕を引きたい」「生涯最良の日にしたい」という彼の希望に沿って集まったのは、CDを残さないまま終わってしまった幻のバンド新・六文銭や70年代にツアーを共にした猫、彼のバックバンドとしてプロデビューした愛奴(当時・現AIDO)、かぐや姫などの再結成はじめ、THE ALFEE、かまやつひろし、武田鉄矢、杉田二郎ら友人も参加。彼が歌ったのは72曲、開演午後5時、終演朝7時、夜があけても終わらないという長時間のイベントとなった。
ただ、吉田拓郎の生き方、という意味で特筆しなければいけないのは2006年9月23日に行われた「吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋2006」ではないだろうか。85年は30代最後、20代最後だった75年から31年後。彼は還暦になったばかりだった。
若者文化の旗手として時代を作ったアーティストが還暦になる。現役として野外イベントを行う。4万人近い観客の平均年齢は40代後半。それは若者の音楽として始まった日本のフォークやロックが大人の音楽として聴かれる新しい時代の到来を告げていた。
「緊張して覚えてない」29歳とは違う成熟した大人の野外コンサート。同行取材していた中で最も印象深かったのが最後の曲をめぐるやりとりだった。
75年の「つま恋」は、夜が白々と明ける中で歌われた「人間なんて」が代名詞のようになった。地平線を揺るがすような6万人の大合唱は音楽のエネルギーが爆発するようだった。79年の「篠島」も最後は「人間なんて」で終わっていた。かぐや姫との31年ぶりの「つま恋」でスタッフが描いていたのが「あの感動をもう一度」だった。最後は当然「人間なんて」というのがいつの間にか暗黙の了解のようになっていた。
それに対して頑として首を縦に振らなかったのが吉田拓郎だった。
締めのお決まり「人間なんて」を拒む
「人間なんて」は、71年のアルバム「人間なんて」に収録されている。広島から上京してきて自分の居場所を見つけられない若者の半ばやけっぱちのような解放感。彼は「この年で客があの歌を合唱するのはおぞましくないか」「俺は今、これと闘ってるんだ」「もし客が『人間なんて』を聞きたいと思ったら俺の負けだ」というのが彼の主張だった。
過去を振り返らない。自分の現在であり続ける。そして人生を肯定する。彼が最終的に選んだ最後の曲は2003年の新曲「聖なる場所に祝福を」だった。若い時にはできなかったこと。彼は終始穏やかな笑顔を浮かべていた。「つま恋」は、音楽ファンにとって聖なる場所になった。
8月29日、彼の4年ぶりのアルバム「From T」が発売になる。去年から始めているニッポン放送の「吉田拓郎ラジオでナイト」の中のコーナー「MY BEST テイク」で世間の評価とは別に自分のお気に入りの曲を取り上げる中で選んだ「思い入れのある曲」「もう一度聞いてほしい曲」27曲三枚組。「こういうアルバムを出すのが夢だった」というアルバムには、門外不出のデモテープ15曲もついている。しかも、自分の作品を語ることをしてこなかった彼の自筆の全曲ライナーノーツも読める。でも、収録曲は発売まで明かされない。
一昨年、古希を迎えた音楽人生のしめくくり。番組の中では73歳でのツアーも公言している。1973年に行われたライブアルバム「LIVE 73」とは別の意味の「LIVE73」がどんなツアーになるのか。
もう「つま恋」も「野外」もないのだと思う。
「拓郎伝説」の最終章が始まっている。
(タケ)