日本に広がる「外国籍」の問題
清水俊平がめざすリアルな映画

   利(き)き腕の力を失くしてジムを去った金(キム)は在日韓国人3世の元ボクサー。怠惰な日々を送り、生活保護費で女を買っては逢瀬を重ねている。その女、櫻(さくら)は夫の暴力から逃れられず、隠れて主婦売春を繰り返していた。

   「在日は嫌い」と言いながらも、祖国と日本の狭間で葛藤する金と、そんな男を母性のような優しさで包む日本人女性の櫻。互いに心の隙間を埋めるかのように惹(ひ)かれ合う男女の姿が哀しくも鮮烈に描かれていく......。

   「在日には独自のコミュニティがあり、ひとつの社会を形成してきたけれど、3世、4世の世代になると、もはや在日であることを何とも思っていない人たちが増えています。在日同士の横のつながりを持つのも好きじゃない人もいれば、コミュニティから飛び出したいと考える人もいる。これまでの在日映画はどうしても遠い過去の歴史を振り返るものが多かったけれど、僕は現代の在日韓国人像を浮き彫りにしたいと思ったのです」

1984年、神奈川県鎌倉市生まれ。パリ育ち。「フランス帰り」というだけで、クスクス笑われることがあって、帰国子女であることを隠し続けた時期があった(フォトグラファー・渡辺誠、以下同)
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「在日嫌いの在日」描く

   2014年のデビュー作、映画『ふざけるんじゃねえよ』で初監督を務めた清水俊平(33)が描いたのは、「在日嫌いの在日」。

   脱サラして入学した多摩美術大学映像演劇学科の授業中に制作した作品が、東京学生映画祭実写部門グランプリを受賞。東京国際映画祭やアジア新人監督の登竜門として名高いバンクーバー国際映画祭など、国内外20以上の映画祭に招待され、世界各国3000人以上の観客を動員した。

   今、清水は初の長編映画に挑もうとしている。公益財団法人韓昌祐・哲文化財団の助成を受け、現代の「在日」の在り方を新たな視点から問う作品に取り組む。在日や日本の若者たちがいかに国籍の壁と向き合っていくのか――。そこには清水自身が日本社会の中で抱いてきた"違和感"が秘められていた。

   商社マンである父の赴任で渡仏し、母と姉の4人家族で2歳から8歳までパリで暮らした。清水が通った公立小学校は16区にあり、周辺は治安が良く裕福な人々が多く住む地区だが、クラスは民族、宗教、文化の坩堝(るつぼ)だった。

「学校で皆の国籍を調べる授業があって、級友の半数ほどがフランス人。あとはポルトガルなど他の欧州国や北アフリカ諸国。アジア圏は日本人と中国人が多かった。国が違えば名前や肌の色も違い、宗教上の理由でベジタリアンの子もいる。でも、そういう多様性を生徒は自然に受け入れます。その一方で東洋人として差別の目も感じました。当時は東洋人といえば中国人に見られ、侮蔑の言葉をかけられる。それでも仲良くなるきっかけはサッカーでした。『おまえは日本人なのに何でそんなにサッカーうまいの?』と(笑)。陰湿ないじめはなかったです」

   休み時間には校庭で友だちとボールを追い、フランス代表を輩出するレベルのクラブチームに入って練習に励んだ。フランスサッカー界の英雄ミッシェル・プラティニが訪れることもあり、「サッカー選手になるのが夢だった」という清水。ところが小3の時に、日本に帰国。生活が一変した。

伯父の助言で映画を勉強

   最初は東京23区の公立小学校へ転入した。フランス帰りというだけで好奇の目で見られ、なかなか馴染(なじ)めない。「僕も生意気(なまいき)だったので、事あるごとに『フランスでは......』と口に出してしまう。自己主張が強く、武闘派で喧嘩早(けんかっぱや)かったから」と苦笑する。

   同じ日本人なのに、なぜ自分が「異邦人」扱いされるのか疑問に思った。翌年、帰国子女クラスがある国立大学附属小学校へ転校した。しかし、そこで一般学級とのあからさまな格差を思い知らされる。一般学級には受験で入学した優秀な生徒が揃い、カリキュラムも違って教育水準が高かった。

   一方、海外から編入した帰国子女クラスは学力もまちまち。教室も隔てられた場所に設置され、遠く離れた給食室から運ぶ食事はいつも冷めていた。

   ただ、帰国子女クラスで優秀な成績を収めると一般学級への編入が認められ、手のひらを返すように生徒たちが仲良くしてくれた。

   卒業後、公立中学へ進み、後に鎌倉へ転居。地元の学校でサッカーに打ち込むが、その道は幼い日の夢で終わる。そして、高校時代に目覚めたのが「映画」への関心だった。

   子どもの頃から映画に親しんできた。フランスのテレビでは名画がよく放映され、洋画好きな両親と一緒に観ていたのだ。高校で出会った美術教師も映画に造詣が深く、いろいろ教えてもらううちに興味がつのった。

「中学1年の時に北野武監督の映画『HANA-BI』が公開され、"日本映画もすごいんだな"と感動しました。インパクトある映像に惹かれて、高校生の頃から日本映画をどんどん観るようになりましたね」

   『HANA-BI』は1997年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。2000年代には青山真治、橋口亮輔など気鋭の新進監督が海外でも高く評価されていく。そうした日本映画に刺激され、自分も美大で映画制作を学びたいと思い始めるが、両親に反対されて進路に悩む。そんなとき伯父から、「映画を学問として勉強してはどうか?」と助言された。

   伯父の清水徹は、マルグリット・デュラスの小説『愛人 ラマン』の翻訳で知られるフランス文学者で、かつて明治学院大学で教鞭をとっていた。同じ文学部に映画史の四方田犬彦(よもた・いぬひこ)や映画理論の斉藤綾子など面白い教授陣がいると勧められ、同大学仏文科へ進む。シネマ研究会で活動し、卒論は大好きな映画監督、大島渚の『愛のコリーダ』を題材にフランス語で書き上げた。

日本社会で抱いた違和感

   その後、海運会社に就職。3年半の勤務を経て多摩美術大学映像演劇学科に入学。そこで出会った映画監督の青山真治に師事し、初めて制作したのが映画『ふざけるんじゃねえよ』だった。

「自分が抱く違和感や問題意識から出発するものを作ろうと思ったとき、『在日』をテーマにしてみたいと思いました。メディアで報道される図式は『在日=ネガティブ』と良くないイメージで扱われがちだけど、少なくとも自分の周りにいる在日コリアンは違う。むしろ日本人よりも日本人らしいところもあるし、人間としてずっと温かかった。そうしたギャップも含めて、"この人たちって何なんだろう?"と考えていました」

   実はこの作品で主役に起用したのは、明学時代から親しく付き合ってきた先輩だ。彼は在日コリアン3世で、家にも良く遊びに行っていた。映画作りに向けて、実際にいろいろ話を聞くと、本人は在日として虐(しいた)げられた体験はあまりなく、特に意識することもないけれど、やはり就職や結婚に際しては横のつながりが未だに発揮されるという。

   清水はあえて「在日が嫌いな在日」をテーマに描くことで、世代間のギャップやそこで生じる新たな歪みも浮かびあがらせる。日本に生まれ、日本人と同じような生活をしていても、結局は「異質」であることを認識せざる得ない主人公の葛藤。それは清水もまた日本社会で抱いてきた違和感と重なる。

   清水は、帰国子女と思われることがすごく嫌だったという。

「フランス帰りというだけで良くも悪くもクスクス笑われることがあって、中学高校のときは帰国子女であることをなるべく隠すようにしていた。僕自身そうだったように、帰国子女の傾向として子どもの頃はあまり協調性がなく、アメリカではこうだった、イングランドでは......とすぐに日本と比べてしまう。だから、自分の育った国や国籍の問題について敏感に感じることがあったのかもしれませんね」

   この作品でデビューを果たした清水は、2014年に東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻に入学。脚本家の筒井ともみ教授に師事して本格的に脚本を書き始め、現在は教育研究助手として大ヒット作『東京ラブストーリー』の坂元裕二教授とともに脚本ゼミで指導にあたっている。そんな清水が、新たに手がける作品のテーマをこう語る。

「やはり何かに追い詰められている人たちを描きたい。それは『在日嫌いの在日』というテーマのもとで、さらには『外国人』という大きなフレームで現代の日本を捉えられたらと。これまでは日本人と在日コリアンという構図があったけれど、今はその下にもう一つ『外国籍』で生きる人たちがいることを考えなければいけないと感じています。あえて乱暴な言い方をすれば、かつて日本人と在日の間にあったわかりやすい差別は薄れているとしても、新たに増えている他の外国人とどう関わっていくか、日本でも広がりゆく『外国籍』の問題も踏まえて、リアルに描き出せたらと思っています」

   「映画」とは国籍や民族の壁を越えて、人間の心に響くものであり、今や日本映画界を背負う監督たちの活躍がめざましい。清水自身も映画の力を信じて、世界に羽ばたけるような監督になるべく挑もうとしている。

   清水俊平にとって、初の長編作品へのチャレンジである。

(ノンフィクションライター・歌代幸子)

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