福山雅治、40代最後の夏
手にした「年齢相応」

   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   シンガー・ソングライターの成長の鍵は「年齢相応」にあるのだと思う。その年齢だからこそ歌える歌。そのキャリアがあってこそ生まれる歌。若いころには作れなかっただろうし、作れたとしても説得力を持ちえなかった歌――。

   もちろん、あらゆる表現者にとってそうだろうとは思う。演じることを職業にしている俳優もその例に漏れない。

   ただ、俳優には作家や演出者がいる。その人自身の実人生とは違う作品で輝きを見せることもある。シンガー・ソングライターはそうではない。自分の歌を自分で作って歌う。そこにはその人の人生観が色濃く反映されてゆく。「年齢相応」になれるかどうかは、その人自身の成長に掛かっていると言っていい。


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「成長した姿を目撃して頂きたい」

   2018年5月27日、東京ドームで行われた福山雅治の「DOME LIVE2018~暗闇の中で飛べ」二日目のステージで彼はこんな話をしてから、2001年のアルバム「f」の一曲目「友よ」を歌った。

「2001年に初めてドームをやってから17年。あの時は若気の至りと言いますか、演奏に落ち着きがなかった。あの頃の私とは違うのです。このセンターステージでギター1本で歌を届けられるという成長した姿をあなたに目撃して頂きたい」

   初めて彼が東京ドームのステージに立ったのは2001年5月。「玉子的大決起集会・まだまだイクやろ!!!東京ドーム」。2000年にデビュー10周年を迎えた区切りのシングル「桜坂」が歴史的な大ヒットとなった翌年である。頂点を極めたかのように見えた晴れ舞台の一曲目が「友よ」だった。

   彼はドームの天井を突き抜けそうな女性ファンの黄色い歓声の中でギター1本を持って登場、緊張を隠せない様子の弾き語りで歌った。彼は32歳。故郷・長崎時代を思い起こしたような熱いバラードは成功したシンガー・ソングライターの気概と気負いの表れのようだった。

   1月から半年間に及んだアリーナ・ドームツアーのファイナル。ファンクラブツアーも含めて4回目の東京ドームでの彼の姿には、「あの時」とは違う艶やな風格すら漂っていた。

ファンなら知ってる「旅立ち伝説」

   福山雅治にはファンなら知らない人はいないという「旅立ち伝説」がある。

   中学生の時に浜田省吾、泉谷しげる、ARB、モッズ、SIONら日本のロックに影響されてバンドを始め、高校を出てから一旦は就職したものの夢捨てがたく、愛用のバイクを売った20万円を資金に上京した。長崎の駅に見送りに来た彼女に「音楽をやる」と言えずに「古着屋になる」と偽っての旅立ち。材木屋でのアルバイトのために最初に暮らしたのは東京の外れ、福生だった。シングル「追憶の雨の中」でデビューしたのは90年3月。21歳になっていた。

   デビュー翌年、新宿のライブハウスで初めて見た22歳の印象は「イメージが先行し過ぎて空回りしているよう」だった。

   彼のことを知ったのは音楽ではなくテレビドラマという人の方が多いのかもしれない。俳優としての人気の爆発的な高まりと音楽への情熱の両立。90年代前半の5年間は、そのバランスとの闘いだったように思う。94年に最初のミリオンセラーを出した後、96年、97年と活動を休止して音楽や表現活動を模索しつつカメラを手に世界を旅したこともある。当時のアルバムには自分の内面の葛藤を歌にした曲が必ずと言っていいほど入っていた。

   そういう意味で「年齢相応」を味方につけたように思えたのが2009年に発売された40代最初のアルバム「残響」だった。前年にNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の主役が発表された後の新作。上京した当時はなじめなかった東京に対しての心情を歌った「東京にもあったんだ」や旅立ちの頃を振り返った「18~eighteen~」、祖母の手を題材に「生命の道」を歌った「道標」と、それまでには歌えなかったと思える曲がアルバムの中核になっていた。

   そして、2010年の「龍馬伝」である。

   もし、あのドラマがなかったら、自分の音楽人生と日本の歴史という大きな視点は一致していなかったかもしれない。歴史上の人物を演じただけでなく一人の人間の「生き方」として重なりあう。40代になったからこその出会い。思慮分別のあるシンガー・ソングライターのヒューマニズム。2011年の「家族になろうよ」は東日本大震災をどう受け止めたのかの証しだろう。そんな流れの到達点が2014年の初の二枚組アルバム「HUMAN」だった。

彼にしか歌えない「夏歌」

   今回のドームツアーの聞き所の一つが中盤に用意されていた「夏歌コーナー」だった。自分の曲の中で「夏」をテーマした曲を並べる。「イメージの向こう側へ」と歌う「虹」、祖母の家に遊びに行った子供の頃を歌った「蜜柑色の夏休み」、8月の空と海の青さを歌った「あの夏も空も海も」と続いた後だ。青い海をバックに「また夏がくる」「あの日、8月9日」というテロップが映しだされる。

   「当たり前のようにやってくる夏」「しかし、当たり前ではない」という文字は彼が2015年の8月9日に日産スタジアムで行ったライブ映像とともにだった。

   福山雅治の夏。エレキギターを買った1984年の夏、ブラスバンドで平和大行進に参加した1983年の夏、平和教育の夏休みの宿題が「祖父母の戦争体験を聞く」だった1979年の夏、1976年、1974年と遡り、生まれたばかりの1969年の夏の写真になる。祖父母の夏、両親の夏。平和ではなかった夏。「平成最後の夏がやってくる」の文字で始まったのがアルバム「HUMAN」に入っていた「クスノキ」だった。長崎の爆心地の神社で被爆しながら奇跡的に生き残ったクスノキを歌った「我が魂の歌」。彼はピアノとバイオリンの演奏に生ギターで加わる。黒柳徹子が通った学校の夏休みをテーマにした2017年の「トモエ学園」の中の「自由」「幸せ」の意味が違って聞こえた。誰にでもある季節としての「夏歌」から彼にしか歌えない「夏歌」。締めくくりはアカペラで始まる「道標」だった。

   そんな6曲を歌い終えた後に口にしたのが冒頭にあげた言葉だった。

史上最多シングル・アルバムセールス

   この日、彼が何度となく口にしたのが「圧倒的なドーム感」と「圧倒的なファイナル感」だった。

   彼のコンサートで最多という16人編成のバンドの音の厚み。ストリングスやホーンと今の日本の最強メンバーのバンド個々の楽器の特性を生かした演奏。クラシックの要素も取り込んだオーケストラアレンジとバンド演奏のアンサンブル。巨大な空間と独特なエコーを計算したようなスケールの広がり。揺るぎない演奏は大地を踏みしめるようであり5万人近い観客の温かい手拍子は遥かな潮騒のように聞こえた。

   その「圧倒的なドーム感」は、2000年以降の彼のライブに欠かせない音楽監督、プロデューサー、アレンジャーのキーボーディスト、井上鑑あってこそだ。彼を筆頭に強者ミュージシャンの間で鍛えられ、学び、今の福山雅治があると再認識させられるステージだった。

   あの日と違う姿――。

   2001年がそうだったように、一曲目にステージに一人で登場した彼が弾いていたのはギターではなくバンジョーだった。

   花道を軽やかな笑顔でステップで歩きながら弾き語りで歌ったのはアルバム「残響」中の「幸福論」。二曲目はインスツルメンタルのドラマ主題歌「vs.2013~知覚と快楽の螺旋」だった。センターステージでムービングライトを浴びながらエレキギターを引き倒す姿は、少なくとも20代では見せられなかっただろう。

   ソングライターとしての成長とミュージシャンとしての成長。この日、披露された新曲の中には「失敗学」「暗闇の中で飛べ」などもあった。「幸福」も「快楽」も「失敗」も「暗闇」も歌い、時には照れながらお面のお尻を見せる茶目っ気もある。

   それこそが彼の手にした「年齢相応」ではないだろうか。

   史上最多シングル・アルバムセールス男性ソロアーティスト、福山雅治は40代最後の夏を迎えようとしている。

(タケ)

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