本屋さんが消える 林真理子さんは「リアル」に光明を探る

   週刊文春(5月17日号)の「夜ふけのなわとび」で、林真理子さんがなじみの書店との別れを記している。消えていった書店すべてへのレクイエム、として読んだ。 

   東京・代々木上原の幸福書房が今年2月20日、40年の歴史を閉じた。家族経営の、よくある駅前の本屋ながら、縁あって林さんのサイン本を置き、ファンや出版関係者には知られた店だった。3月8日号の同じコラムにも、「最後の日」が切々と描かれている。

   山梨で書店の娘として育った林さんである。常々「私は本屋さんの味方」と公言してきただけに、喪失感は想像に余りある。

   過日、林さんや平松洋子さんら書き手が、店主夫妻らを招いて10人ほどの「お疲れさま会」を近くの居酒屋で催した。その席で林さんは、こんな話をしたという。

〈なくなってから2カ月、一度も本屋さんには行ってません。まだそんな気になれないんです。替わりにアマゾンを使います。あんなに嫌いだったアマゾンだけど仕方ない〉

   食事を終えた参加者はシャッターの前で記念撮影をし、何人かは涙ぐんでいたそうだ。

「幸福書房さんの閉店は、そこにいる私たち作家に、不安と悲しさをもたらしたのである。『ひとつの時代が終わった』のではない。『もうこのような時代は来ないだろう』という寂寥感である」
昔ながらの本屋さん(本文とは関係ありません)
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ボタ山をせっせと

   先ごろ、日本文藝家協会の集まりでこんなやりとりがあったそうだ。

「この頃、本当に本が売れない」「もはや衰退産業」「俺たちは石炭だから」...

   それを聞いた林さんは、子どもの頃、閉山を受けて九州から越してきた炭鉱マン一家を思い出す。そこの娘とよく遊んだそうだ。

「私もいつか、鉱山(ヤマ)を下りなきゃいけないのかァ」

   ここで言うヤマとは、いわゆる文壇のことだろう。「別の街で職を見つけなければならない。しかしこのトシでは、雇ってくれるところもないだろう...テレビのコメンテーターとかも、もう頭がついていけそうもない」...林さんの将来不安は膨らんでいく。

「ボタ山をせっせと掘るように仕事をして、書くことしか能がない中婆さん。しかしその産業の行末は暗い」

   林さんのコラムは大抵、暗いままでは終わらない。今回も「今週だけで三回出かけている」という劇場に話題を転じ、光明を見いだす。実際、ネット全盛の世だからこそ、リアルと向き合える芝居の人気が高まっているらしい。

「ネットではかなえられないリアル。それを本がかなえることがきっと出来るはずだ。廃鉱になっても鉱脈を見つけなくては」

20年で半減

   昨今、昔ながらの本屋を「リアル書店」と呼ぶことがある。それほどまでに「ネット書店」が一般化してきたということだ。本そのものも電子データとして売買されている。

   林さんがアマゾンを「あんなに嫌い」なのは、ネット書店と電子書籍の両方で支配的な地位を占めているからだろう。まさに「駅前書店」の天敵にして脅威である。

   とはいえ、作家たちが自らを石炭や炭鉱に例えるのは自虐が過ぎる。筆やペンがPCになっても、文筆の営みは変わらない。石炭はエネルギー革命の中で石油や天然ガスに敗れ去るのだが、文学という知的活動は永遠だし、まして人気作家が路頭に迷うはずはない。

   石炭に例えるべきはリアル書店である。業界統計によると、全国の書店は約1万2000店で、2000年当時に比べほぼ半減。書店のない市町村も400を超す。

   苦境は地方の中小だけではない。東京の青山ブックセンターは、深夜営業で知られた六本木店(80年開業)を6月に閉める。「都市の文化拠点がまた失われる」と嘆きたいところだが、ツイッターで見た限り、とりわけ50歳前後のバブル世代では「思い出の待ち合わせ場所が消えちゃう」といった反応が目立った。「リアル」の惜別である。

   ツイッターといえば、最近こんなつぶやきにも出会った。

「ネット通販は便利だけど『探してない本』に出会えないんだよね。書店はぶらぶら背表紙見ながら歩いて、面白そうなのと出会うのが好きだった」

   本にも人にも、しばしば運命的な出会いがある。それもまた、「ネットではかなえられないリアル」のひとつである。 

※なお幸福書房については、店主、岩楯幸雄さんの著書「幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!」(左右社)に詳しい。

冨永 格

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