練習曲を登山に見立てたクレメンティ 大げさな題名を皮肉ったドビュッシー
先週は、現代でも広く使われているチェルニー30番練習曲を取り上げましたが、今日はまず、現代日本ではほとんど使われることのないピアノ練習曲集に登場してもらいます。ムツィオ・クレメンティの「グラドゥス・アド・パルナッスム」という名の曲集です。
モーツァルトと一緒に舞台に立ったが...
チェルニーが「30番練習曲」こと、「メカニスム(技術)の練習曲」を書いたのは19世紀後半、1850年代になってからでしたが、クレメンティの「グラドゥス・アド・パルナッスム」は、19世紀前半に作曲されました。全3巻に及ぶ大作で、それぞれ、1817、1819、1826年に刊行されています。継続的に多数の練習曲を作り、順次刊行していったことを見ても、この時代、いかにピアノのための練習曲が世の中で望まれていたか、ということがうかがえます。楽器の性能が上がり、社会の中心が宮廷から市民社会になり、人々が家庭で音楽を楽しむことができるようになり、同時に儀式的作法に縛られていた作曲の様式がより自由になり、古典派の時代と比べて演奏が飛躍的に難しい曲が増えたため、ある程度の演奏技術を身に着けてからでないとまともに弾けない、という曲が増えてきたのです。
1752年に当時まだ教皇領だったローマに生まれたクレメンティは、10代のころ英国に渡り、オルガン、チェンバロを勉強し、鍵盤楽器奏者・作曲家・指揮者として名をとどろかせました。20代のころにはヴェルサイユ宮殿でマリー・アントワネットの前で演奏し、そのあとに招かれたウィーンの宮殿では、3歳年下のモーツァルトとも一緒の演奏会で舞台に立ったことが確認されています。もっともモーツァルトはクレメンティのことを酷評していましたが・・・。
そのころ、改良に次ぐ改良を経て音が大きくなり、音質も改良されてきたピアノに、クレメンティも当然のようにかかわることになります。40代半ばで、仲間とピアノメーカーを経営し、自ら、「ピアノを弾いてプロモーションする営業マン」の役割を担ったクレメンティは、弟子のジョン・フィールドなどを引き連れて、ヨーロッパ中を旅行するのです。1832年、当時としてはかなり長命の80歳でロンドンに没したクレメンティは、まさにピアノが近代の楽器に脱皮する時期にともに生きた音楽家と言えるでしょう。
練習曲というジャンルが定着していなかった時代
その彼が残した、ピアノ練習曲集、「グラドゥス・アド・パルナッスム」は、当時はまだピアノのための練習曲が少なかったこともあり、(なにしろ、「チェルニー30番練習曲」がまだ登場していなかったのですから!)、人々に大変重宝されました。
現在では、ピアノを始めた人が比較的初期に練習する「クレメンティのソナチネ」のほうがはるかに有名なのですが、ピアノ練習曲勃興期にあって、重要な役割を果たしたといえるのです。
ちなみに、この一風変わった題名ですが、ギリシャのパルナッソス山に登る、という意味で、ギリシャ中部に存在するこの山は、神話の世界でミューズが住むといわれ、音楽・文学などの芸術を極めることを、パルナッソス山に登る、と表現したことにちなんでいます。フランスのパリ市の左岸、南に位置する小高い丘が、「モンパルナス」と名付けられていますが、フランス語でモンは山、パルナスはパルナッソスの仏語読みで、この山から名付けられたものです。モンパルナス界隈には、20世紀の初め、哲学者や芸術家がたむろしたカフェがたくさん存在しています。
練習曲の揺籃期に作られたクレメンティの曲集は、営業政策もあり、グラドゥス・アド・パルナッスムという大げさな題名がつけられましたが、この時代の練習曲集は、みな似たような題名を持っていました。まだ、練習曲というジャンルが定着していたとは言い難かったので、言葉による説明も必要でしたし、ある程度大げさな題名も、消費者に手に取ってもらうためには必要だったといえるでしょう。ピアノという楽器が当たり前になり、その演奏を学ぶために「練習曲」が必要という常識ができてくると、過剰なタイトルは影を潜めます。
幼い子が苦労する練習曲に「博士」と名付けた
20世紀になって、フランスの作曲家、ドビュッシーは、ピアノのための曲集「子供の領分」の1曲目に「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」というタイトルを付けました。自らの娘がピアノを練習している姿を描写し、曲の冒頭にはクレメンティの練習曲のモチーフを引用して、次第に、自由なドビュッシースタイルに曲は変化して、若い人の明るい将来を描いている・・という詩的な曲ですが、幼い子が一生懸命苦労して練習している練習曲を「博士」と名付けた皮肉が効いています。芸術音楽というより、無味乾燥な繰り返しで指のメカニズムを鍛える単一目的の曲・・・ドビュッシーは、20世紀初頭の時点で、すでに19世紀前半の練習曲をそういった皮肉の目で見て「本歌取り」を行っているのです。
しかし、ドビュッシーは、自らも最晩年に「練習曲集」を作曲しています。もちろん、ドビュッシーは練習曲のスタイルを借りた芸術曲、を目指して作曲したのですが、ピアノ学習者にとって、練習曲はもはや当たり前の存在になったことをうかがわせます。ちなみに、練習曲は一般的に「エチュード」または「エグゼルシス」と呼ばれますが、いずれもフランス語です。
本田聖嗣