ピアノ学習の憎まれ役「30番練習曲」 800曲以上残したチェルニー晩年の傑作
4月になり、新年度を迎え、新しい職場や学校に行き始めた、という方も多いかと思います。欧米は9月に新年度が始まるのがほとんどですが、日本は桜の季節がふさわしいということからでしょうか、4月が新たな門出という習慣が根付いていますね。
いろいろなことが新たに始まる、ということで、この時期からピアノを始めよう・・または、再び始めてみよう・・と思われる方も多いかと思います。今日は、そんなピアノ練習の時に必ずと言ってよいほど登場する曲、「チェルニー30番練習曲」を取り上げてみましょう。
ベートーヴェン第5番「皇帝」初演でピアノ
作曲者のカール・チェルニーは、ウィーンに1791年に生まれました。同じく音楽家であった父の代にプラハから帝都ウィーンに移住してきたチェコの家系で、ドイツ系としては風変わりな苗字はそれを示唆しています。
父から基礎教育を受け神童ぶりを発揮した彼は、若干10歳の時に、21歳年上のベートーヴェンの眼前で、彼のピアノソナタ第8番「悲愴」を弾いて認められ、以後数年間弟子入りをすることになります。ベートーヴェン以外にも、クレメンティやフンメルといった、「ピアニストであり作曲家」にも師事したチェルニーは、もちろんピアノの腕前は超一流だったのですが――ベートーヴェンのピアノ協奏曲 第5番「皇帝」は彼のピアノによって初演されています――師匠たちと同じく、演奏活動よりも作曲活動・教育活動に力を入れるようになります。そして、やはり、その音楽活動は当時目覚ましい発展をしていた「ピアノ」が中心でした。
「ピアノの系譜」の中では、ピアノにとってかけがえのないソナタや協奏曲、室内楽作品を残したベートーヴェンの弟子であり、史上初の「ピアノリサイタル(独奏演奏会)」を開催し、スーパーピアニストでありロマン派の重要作曲家であったフランツ・リストの先生、という位置づけのチェルニーですが、800曲以上の膨大な作品を残したにも関わらず、現在では、「30番練習曲」を代表とする「練習曲集」の作曲者としてしか知られていません。
これは、ちょうど、チェルニーが「作曲家がピアニストなどの演奏者も兼ねる」古典派の時代から、「作品が高度になり、作曲家は演奏を他の演奏家に任せる」時代に変化していった時代を生きたことにも原因があります。演奏家の養成が、時代の要求でもあったのです。
そして、先生のベートーヴェンが、常日頃、「自分の作品などを演奏するための技術を身に着けるための演奏法といったものを生み出したい。しかし、時間がない!」と言っていたのをいつも聴いていたのです。芸術を追求するのに余念がないベートーヴェンの姿を見て、「それなら自分が」と考えたのか、それとも、師匠の才能にはかなわないと思ったのか、もしくは、自分の教育活動の過程でそれが必要かと思ったのか、彼は晩年になって、代表曲となる、日本では「30番練習曲」として知られている曲集を生み出すのです。
現代日本でもピアノ教育の現場で使われている
「チェルニー30番練習曲」の原題はフランス語で、「エチュード・ド・メカニスム」、翻訳すれば、「(演奏)技術の練習曲」となります。ざっくり意訳翻訳すると、「ベートーヴェンの作品などの芸術的ピアノ曲を弾きこなすために、ぜひとも身に着けておきたい基礎的ピアノ技術を習得するための、反復練習のための曲集」といったところでしょうか。意図的に、音楽的・芸術的要素をそぎ落として、指や腕や肩の練習に集中できるように特化した曲、といえます。そのために、時々「無味乾燥な練習曲」というようないわれのない批判を受けることもありますが、この曲集は、最晩年のチェルニーが、今までのノウハウのすべてをつぎ込んで、「あえて」シンプルな形式を選び、段階的・そして体系的にピアノ演奏技術が身に着きやすいように編纂した、熟練の練習曲集と言えるでしょう。その有用性が広く認められたからこそ、現代日本でも、この練習曲集はピアノ教育の現場で使われているのです。
生まれ年から言うと、ウェーバーやシューベルトといった、古典派からロマン派への橋渡しをした作曲家たちと同世代のチェルニーですが、チェルニーが「30番練習曲」を完成した1850年代は、すでにショパンが49年に亡くなり、シューマンも56年にはこの世を去り、ワーグナーは大作「ニーベルングの指輪」の連作オペラを発表しつつある・・・既にロマン派真っただ中、の時代でした。そこに、登場した「古典派的形式を持つ練習曲」は、最初からクラシックな香り・・・を持っていたはずですが、そのあたりも、一生ウィーンから動くことのなかったチェルニーの特質を表しているといえるのかもしれません。
本田聖嗣