有史以来の人類の「過ち」が続々 なぜか選ばれなかった「大罪」とは

■『失敗だらけの人類史』(ステファン・ウェイア著、定木大介、吉田旬子訳、日経ナショナルジオグラフィック)


   「人類の歴史は『失敗の歴史』と言える」との言葉で始まる本書は、有史以来の47事例に上る過ちを概説する。

   美しい写真や図画が挿入されており、読者それぞれに想像を膨らませつつ読むことができる。ナショナルジオグラフィック社ならではの楽しみだ。一つ一つの事例も4~6ページ程度で完結するため拾い読み出来る。通勤途上にあれこれ読んでみるのも一興だろう。

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英国批判と自国擁護

   冒頭の事例は禁断の実を食べたアダム、そこから事例はギリシア・ローマ、中世、それ以降と徐々に時代を下る。戦後はスエズ動乱、ベトナム戦争などを経て、最後の事例は津波センサーを配置しなかった南アジア各国政府となっている。

   特に興味深く読んだのは大英帝国支配下のインドで生じたセポイの乱である。

   独立を求めてインド陸軍が蜂起した、という程度で受け止めていたこの反乱が、インド陸軍に配備された銃の実包に牛脂が塗られていたことに端を発するというのである。実包は噛みちぎって弾を出す。ヒンディー教徒の兵士が、聖なる動物の脂を口にする禁忌との相克をどう受け止めたか、想像に難くない。

   米国の出版社の書籍を邦訳したため、事例は欧米のものがほとんどである。ドイツ軍への防備に役立たなかったフランスのマジノ要塞線を挙げる際、万里の長城を引用すれば本書は教養の厚みを見せたであろうが、まあ仕方あるまい。

   また、本書が英国の失敗を繰り返し取り上げる点は、米国人のコンプレックスかと苦笑いさせられる。47事例中、実に13事例が英国人の失敗であり、ウィンストン・チャーチル卿は主役として2回登場する唯一の人物となっている。

   対して米国人の失敗は6事例。歴史が浅いと失敗も少ない、とでも言うのだろうか。

   このように、本書は西欧中心の歴史概観とはなるが、それはそれで新たな発見に満ちた刺激的な読み物であることは間違いない。

陰惨なる人類史と「健全」なる歴史観

   生じてしまった過ちの原因分析が主題の本書では、被害の描写は簡素である。

   1984年にインド・ボパールで起きた化学工場の爆発事故は、「猛毒ガスがもくもくと立ち昇り、またたく間に半径20平方キロにまで広がって、3800人以上が数分以内に息絶えた」で被害の説明を終えてしまう。

   だが、3800人一人一人の人生に具体的に思いを馳せると、慄然という言葉では表せない、強い衝動が湧きおこる。被害は2万人にまで及んだという。

   この事故を起こした企業が、弁護士を大量に雇い、字も読めぬ被害者や遺族宅を回らせ、不当な示談書にサインさせた事実を評者は苦々しく思い出すが、本書はこれを指摘しない。さすがに簡素化し過ぎだろう。

   このように、多くの事案の実態は、本書原題の"mistake"に留まらぬ、未必の故意や悪意に基づく大量虐殺とさえ言いたくなる悪質なものだ。事例を少し選び直せば、『同胞殺しの原罪史』とでも改題しうるのではなかろうか。

   そのような視点からすれば(そうでなくとも)、ヒロシマ・ナガサキは最大の「過ち」である。だが本書には載っていない。オーストラリアの核実験を採り上げていながら、である。ここに評者は米国社会の限界を見る。

   コラムニストの故山本夏彦氏は、自国を擁護する歴史教育は「健全」であるが故に、「健全」であることを嫌って見せた。本書が見せる西欧文明中心主義は、相も変わらず米国が「健全」であり続けることを端なくも証明する。

   著者は言う。「失敗の多くは、優秀で善意に満ちた人々が、肝心なときに大事な判断を誤ったために引き起こされている」と。原爆投下という、人類史に永久に残る大罪を本書が選び得なかったこともまた、一つの「失敗」であろう。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

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