ブラームスが腰を落ち着けた音楽の都 「ピアノ四重奏曲」で地位を築く出発点に
春は引っ越しシーズンです。欧米では新年度が9月から始まるところがほとんどですが、日本は桜の季節、4月を新しい年度の始まりとするところが多いので、新しい学校・職場・勤務地に移動することが多く、したがって、冬の季節は引っ越し業者と不動産の広告が増えます。
音楽家は、旅の多い商売です。演奏家はもちろんのこと、移動が一見必要なく思える作曲家でさえ、「自分を必要としてくれる土地」に出向かなければいけない宿命を抱えています。
最初はウィーンに住むつもりはなかった
北ドイツ・港町ハンブルクに生まれたロマン派の音楽家、ヨハネス・ブラームスもそんな一人でした。彼は若いころピアニストとして活躍したので、演奏旅行が多くなりましたが、旅は、彼に貴重な出会いをもたらしてくれました。ハノーファーでヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムと、ヴァイマールでピアニストにして作曲家の巨匠、フランツ・リストと知り合いになり、デュッセルドルフではロベルトとクララのシューマン夫妻に出会ったのです。いずれも、音楽家、特に作曲家としてのブラームスに大きな影響を与えた人たちでした。
彼は、29歳のとき、はじめて「音楽の都」を訪れます。帝都ウィーンです。
ブラームスが尊敬する先輩作曲家(そしてピアニストでもあった)ベートーヴェンも、ボンの出身でしたが、ウィーンに定住し、主だった作品をそこで作曲しました。しかしブラームスは、ウィーンに居を移すつもりは、最初は全く無かったようです。自分は故郷を愛する人間だ、と自覚して、周囲にもそう漏らしていたブラームスでしたし、上記のように、ドイツ内の旅行は彼に実りの多い出会いや機会をもたらしてくれていたからです。ウィーンは、ドイツからすると、あまりにも南で、そして東寄りの都市でした。そしてそこには耳の肥えた、時として意地悪な聴衆も待ち構えていたのです。
「この人こそ、ベートーヴェンの後継者だ!」
ブラームスが最初にウィーンを訪れた時、知人でピアニストのユリウス・エプシュタインの家で、彼の「ピアノ四重奏曲 第1番」をヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヘルベスメルガーが率いる四重奏団のメンバーと、彼自身のピアノで、初見で演奏しました。ヘルベスメルガーはブラームスの作品の出来に感心し、「この人こそ、ベートーヴェンの後継者だ!」と大声で言ったのです。それは、ブラームスにとって、身に余る光栄でした。交響曲や、室内楽の分野で、彼は特にベートーヴェンをリスペクトしていたからです。
偶然ですが、ヘルベスメルガーが大声をあげたエプシュタインの家は、古くはモーツァルトが3年間暮らして「フィガロの結婚」やブラームスのレパートリーであった「ピアノ協奏曲 第20番」などを作曲した家であり、そこにはハイドンがモーツアルトを訪れたこともあり、若きベートーヴェンがモーツァルトの前でピアノを演奏したのもこの家であった、と言われています。音楽の都、ウィーンならではの数々の出会いが、ブラームスを惹きつけたのは間違いありません。
それからほどなくして、「ピアノ四重奏 第1番」は正式に演奏会でヘルベスメルガー四重奏団によってとりあげられ、そのすぐ二週間後に、ブラームス自身の演奏会で、彼はピアニストとして、バッハ、シューマン、自分自身のピアノ独奏作品と合わせて、今度は第1番と同時期に作っていた「ピアノ四重奏曲 第2番」を演奏し、この演奏会は拍手喝采を受けて大成功となります。
この時は、まだ自分がウィーン市民になるとは思っていなかったブラームスですが、彼が望んでいた故郷ハンブルクのオーケストラの指揮者のポストが他の歌手に決まる、という衝撃的なニュースが舞い込んできたため、ブラームスはウィーンに居を移すことを考え始めます。
音楽の都の魅力的な音楽環境に魅せられ、故郷での冷たい仕打ちも重なって、彼は一旦ハンブルクには戻ったものの、ウィーンのジングアカデミー合唱団の指揮者を引き受ける、というかたちで、再び帝都に舞い戻り、そこで、腰を落ち着けて長く活躍することになるのです。図らずも敬愛するベートーヴェンと同じように、決して甘口でばかりではない、辛口の聴衆もいるウィーンで、彼は、主に作曲家として勝負することにしたのです。
本田聖嗣