引退したいロッシーニによる「抵抗の証」? オペラ「ウィリアム・テル」誕生秘話

   今日は、日本でも名前はよく知られているロッシーニのオペラ、「ウィリアム・テル」をとりあげましょう。正確に言うと、よく知られているのはオペラ本体ではなく「序曲」の部分ですが。

鋭いまなざしのロッシーニの肖像
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オリジナル版の上演時間は5時間超

   19世紀最大のオペラ作曲家の一人といってよいロッシーニの作品中、なぜこの作品がよく知られているかというと、学校教育の中で・・いわゆる「音楽の時間」に取り上げられることが多いからです。私も、小学校の時の音楽の時間で聴きました。・・しかし、それは、大抵「序曲」のみです。オペラの舞台の幕が開く前に、オーケストラ・ピットのオーケストラだけで演奏される曲がオペラの「序曲」ですが、その序曲は、これから始まるオペラの内容や物語を表しているものが多く、いわば「ダイジェスト予告編」となっています。

   そして、「ウィリアム・テル序曲」はそれが大変わかりやすい形で作曲されているので、日本の音楽教育の中で「オペラ序曲の典型」として紹介されることが多いのです。

   しかしながら、実際は序曲で「ダイジェスト」をしないオペラも数多くありますし、オペラ「ウィリアム・テル」は、オリジナル版の上演時間は5時間を超え、その上に歌手に難易度の高い歌を要求する個所もあり、オペラとしては、近年めったに上演されない演目となってしまっているところが何とも皮肉です。上演されたとしても短縮版が多くなってしまっているのも、忙しい現代では仕方がないことかもしれません。

   19世紀、母国イタリアのみならず、ヨーロッパ全土・・およそオペラという名のつく演目を上演する国々では知らぬ人のいない人気作曲家が、ジョアッキーノ・ロッシーニでした。その名声は、軍事でヨーロッパを席巻したナポレオンにも匹敵するといわれ、自分の芸術に絶対の自信を持っていた、かの楽聖ベートーヴェンでさえ、ロッシーニの喜劇オペラに関しては、その才能を認め、本人と会った時に激励した、と伝えられています。

ロッシーニ、引退したがった理由

   しかし、その実態は、過酷なものでした。ヒットメーカーというのは、アーティスト単独でできるものではなく、そこに必ず名プロデューサーがいます。オペラの母国、イタリアでは、各歌劇場とプロデューサーと作曲家の連携が緊密であったために、つぎつぎとヒット作品が生まれ、人気の作曲家も生み出すことになります。その流れに乗って、ロッシーニも次から次へとヒット作を連発し・・・時には、忙しすぎて序曲を作る暇もなく、自分の他のオペラの序曲を転用したらそれがまたヒット作となった「セビリアの理髪師」(参考:速筆ロッシーニの確信犯的「再」転用は代表作に オペラ「セビリアの理髪師」序曲)のような作品もありました。

   そんな忙しい生活のさなか、ロッシーニは引退を決意します。ヒットメーカーとしてお金は十分に稼いだので、生活には困りません。ただ、人気が落ちていないので、このままイタリアにいるとオペラ作曲家としてずっと自転車操業をしなければならない・・・一般的に「引退」は、自分の才能の枯渇や、体力の限界を感じてするものですが、ロッシーニは正反対、実に贅沢なことに、絶頂期に引退することにしたのです。なぜなら、彼は音楽と同じぐらい大事にしている「美食」という趣味があり、そちらを極めてみたいという欲もあり、とにかく時間が欲しかったのでしょう。

プロデューサーの圧力を避けパリへ

   しかし、プロデューサーたちからの作曲依頼が引きも切らないイタリアではそれはかないません。なので、彼は、フランス・パリの歌劇場の依頼を受けることにします。題材は、スイス独立の英雄とされる「ギヨーム・テル」。日本では英語で「ウィリアム・テル」と呼ばれるのが通例ですが、オリジナルはフランス語台本なので、初演の時は「ギヨーム・テル」でした。

   30代後半の脂の乗り切ったロッシーニが作曲したオペラは、もちろん大成功をおさめ、同時代の作曲家たちも、この作品を意識せざるを得なかった、といいます。現在は上記のような時間的・キャスティング的理由で、オリジナル版が演奏されることは少なくなっていますが、序曲は有名ですし、短縮版でオペラが上演されることもあります。ロッシーニが自ら決めた「引退作品」は、彼の代表作の一つとなったのです。

   オーストリアの圧政に苦しむスイスで、弓の名手ウィリアム・テルが祖国を鼓舞し活躍する話のこのオペラですが、イタリアのプロデューサーの圧力のもと活躍していたロッシーニが、フランスへ逃げて、引退して、少し自由に生きたい・・彼は、そんな願望を込めて作曲していたのかもしれません。

   胸が躍るような、軽快なスイス騎兵隊の行進曲が序曲の最後に出てきますが、「ウィリアム・テル」は今日も世界の人々に勇気を与えてくれます。

本田聖嗣

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