小室哲哉、平成J-POPの立役者
「引退」は回すべき皿がなくなったのか
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
突然の引退発表から約1週間。さすがに彼に対しては同情の声が強くなっているようにも思えるのだが、それが自然な感情というものではないだろうか。アーティストが音楽とは無縁のスキャンダラスな報道で私生活をさらけ出さざるを得なくなる。心中察してあまりある、というところだろうか。
でも、彼の引退発表は図らずも、この30年余りのJ-POPの流れをあたらめて振り返るきっかけをくれたようにも思う。「平成」があと一年という区切りもあるのかもしれない。少なくとも「平成」の前半は、小室哲哉一色だったと言って過言ではないからだ。20世紀末のJ-POP黄金時代の立役者が彼だったことに異論を挟む人はいないだろう。
デビュー前から「日本にいないユニット」だった
J-POPの歴史の中で彼が広めたことや定着させたことはいくつもある。キーワード風に言えば「コンピューター」「サンプリング」「ユーロビート」「転調」「コンセプト」、そして「プロデューサー」ということだろうか。
彼がTM NETWORKでデビューしたのは1984年。TMというのは小室哲哉・宇都宮隆・木根尚登の3人が三多摩の出身だからだ。タイムマシーンという意味もあった。未来から来た3人組。日本のシーンは松田聖子・中森明菜を筆頭としたアイドル全盛、尾崎豊がデビューしたばかり。ロックは70年代からの吉田拓郎や矢沢永吉、80年代に入ってブレイクした浜田省吾や甲斐バンド、佐野元春らが中心という時代。シンセサイザー中心でドラムもベースもいない3人編成は異色だった。
しかも、彼らは「今の機材では再現不可能」「レコーディング主体でライブはやらない」と公言していた。初めて見たのはデビューのきっかけになったコンテストで優勝したTBSホールでのコンサート。その時すでに日本にこういうユニットはいないという印象だった。最初のツアーとなった日本青年館でのライブも「コンピューターと連動しているためにアンコールはやりません」と前置きがされていた。
そういう意味では、自分たちが作りたいのはどんなイメージで、どんなコンセプトに基づいているのか。TM NETWORKは、それが貫徹されていたことでも稀有なグループだった。
例えば、ブレイクのきっけかになった86年のシングル「COME ON LET'S DANCE」で彼が使った言葉が「FANKS」。ファンクとパンクとファン。アメリカのブラックミュージックの柱でもあるダンスミュージック「ファンク」と過激なブリティッシュロックの「パンク」、そして自分たちの音楽を聴いてくれる「ファン」という造語。近未来的なシンセサウンドに肉体感のあるダンスミュージック的要素が加わるきっかけになった。88年のアルバム「CAROL」は、CAROLという女の子を主人公にしたファンタジーが元になったストーリーアルバムで、東京ドームで行われたライブもミュージカル仕立てだった。
すでにあるイメージや固定観念の先を行き、新しい何かを提出する。そんな活動の最たるものが、90年の「リニューアル」だろう。TM NETWORKからTMNへ。グループ名も変わり、音楽もハードロックへと切り替わっていった。94年に解散したTMNの当時最後のアルバムとなった91年の「EXPO」を特集した雑誌「月刊カドカワ」が手元にあった。その中で彼は筆者のインタビューに初めて買ったレコードはT・レックスのアルバム「ザ・スライダー」と話していた。3才からバイオリンをやっていた天才少年はロック少年でもあった。
スーパープロデューサーになっても終始、演奏家
昭和から平成という移り変わりの中で激変していったのが音楽を取り巻くテクノロジーだろう。アナログからデジタル。レコーディングもライブも日々新しくなってゆく。彼はそのインタビューの中で「ぼくたちの場合には 常に機械に勝っていないといけないっていうか、こちらのアイデアが勝ってないとダメなんですね」と話している。彼がTMNを終了させてゆく時期はヨーロッパのダンスビート、ユーロビートの輸入盤を仕入れることで始まったレコード会社、エイベックスと急速に接近してゆく時期と重なりあっている。デジタルな高速ビートはアメリカ発のR&Bやファンクに代表されるダンスミュージックを一変させた。ユーロビートで爆発的に盛り上がっていたディスコ、マハラジャで行われていた小室哲哉主宰のダンスイベントから生まれたユニットが93年デビューのテツヤ・コムロ・レイブ・ファクトリー、trfだった。デビュー2年でCD売り上げ史上最速一千万枚突破。その後の歴史的快進撃の説明は不要だろう。
95年に豊洲の野外で行われたイベント「TK ダンスキャンプ」で坂本龍一と一緒にYMOの「BEHIND THE MASK」を演奏するのを見て、彼が継承しようとしている音楽を再認識させられた覚えがある。YMOが実験したコンピューターを使ったポップミュージックの徹底した大衆化。作詞作曲、そしてプロデュース。それまで裏方的と思われていた「プロデューサー」が脚光を浴びる時代が来た。
例えば、Aメロ・Bメロ・サビというJ-POPの定型を無視するかのようにビートで盛り上げてゆく構成や劇的な転調、時にクラシカルでもある歌い手の歌唱限界を生かしたメロディーの情感。演歌的恋愛ドラマとも違う女性の生活感。洋楽のコピーでなく歌謡曲とも違う。彼が作り出したヒット曲のいくつもの特徴はその後のJ-POPの一つの類型になっていることは間違いない。
とは言え、彼は終始、演奏家だったように思う。TM NETWORKのライブは最新機材を弾きこなす御披露目の場だったし、trfの初めての東京ドームには生バンドが入っていた。globeの東京ドームでも彼はハードロックのミュージシャンのように激しいパフォーマンスを見せていた。どんなにスーパープロデューサーになってもミュージシャン魂を失わない人、というのがその時の印象だった。
91年の「月刊カドカワ」のインタビューで彼は、自分の活動を「皿回し」に例えてこんな話をしている。
「一枚まわったら次をまわして、二枚目がまわったら三枚目をまわして、三枚目がまわりだしたら一枚目二枚目をまた加速、力を供給してあげて、どこまで増やせるか。一緒にまわってるお皿を何枚まで増やせるかっていうのと同じなんですね」
「一枚だけじゃつまんない。一枚まわり続ければ、次にとりかかる。だから止まってこっちだけというふうにはしたくない。止まらないようにしなきゃいけない」
その後、彼は何枚の皿を回したことになるのだろう。そして、もはや彼の中には回すべき皿がないということなのかもしれない。でも、常に勝ち続けないといけない、何かと引き替えに皿を回し続けていないといけないのが「商業主義の戦場」だとしたら、「引退」というのは、そこから身を引くということなのではないだろうか。
もう次の皿を回す必要もない中で音楽と向き合う。
そこからまた生まれてくるものがあると信じたい。
(タケ)