マラソンがなければ、今の自分はなかっただろう

   ■「それからの僕にはマラソンがあった」(松浦弥太郎著、筑摩書房)


   評者の数少ない趣味は、「ランニング」である。海外勤務から帰国した際に、人間ドックの結果に驚愕して、近所の公園を走り始めたのがきっかけだが、子育てを終えた昨今では、自由になる時間の大半をこの趣味に費やしている。

   以前、本欄で、池井戸潤の「陸王」を取り上げたが、昨年暮れ、ついにテレビ化され、毎週、日曜の夜が待ち遠しくてたまらなかった。凋落著しい足袋屋の立て直しを賭けた中小事業主の挑戦と、ケガのために箱根駅伝以来のライバルに大きな差を付けられたランナーの再起を賭けた挑戦が重なり合って進む物語に、作り話とは思いつつも、感涙を抑えられなかった。

   「陸王ロス」ともいえる心境で迎えた年明けは、何はともあれ箱根駅伝。目が行ったのは、4連覇した青山学院大学の走りよりも、むしろ、他大学の4年生たちの力走。特に、早稲田大学のアンカー(谷口)は、最初で最後の箱根駅伝、一度は、後続に2秒差まで迫られながらも、粘り抜き、最後に東海大を抜いて、早稲田に3位をもたらした。最後まで諦めなかった者に祝福が与えられた瞬間に思わず感動した。

「マラソンには人生がある!」

   そんな心境の下で、手にしたのが本書。雑誌「暮らしの手帖」の編集長として、その立て直しに貢献したことで有名な著者が、マラソンを始めたわけ、そして、今や、走ることが生活に欠かせない一部となっていることを語るエッセイである。「陸王」や箱根駅伝のような「熱量」とはちょっと違うけれど、マラソンが教えてくれる人生を語っている。

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走ることで、支えられた

   現在52歳の著者が走り始めたのは、暮らしの手帖の誌面の刷新を任されて3年が経った9年前。がんばっても成果が出ない中で、睡眠障害、そして帯状疱疹と、心身に支障が出始め、ついに心療内科を受診し、薬を処方してもらった時のことだ。

「僕はどうしても薬を飲む気になれなくて、ぼんやりと『さて、どうしたらいいのかな』と思っていました。『仕事が忘れられるような、現実から少し離れられるような、ストレス発散とでもいうようなことをしてみたらいいかもしれない。でも何がいいんだろう』と思いをめぐらしていたときに、ふと頭をよぎったのが、『ちょっと走ってみようか』ということです」

   もともと運動好きの著者だったが、最初は300メートル走って、辛くなって止まってしまった。しばらく休んで、また走る、を繰り返したという。それでも久しぶりに、心地よい汗をかいた。

「ああ、体を動かして汗をかく――そんな簡単なことを、僕はずっと忘れていたのだな」

   それからは、とにかく毎日、走った。走るのは辛く、苦しくても、本能的に走るのを止めてはいけない、続けていないと自分の抱えている問題を根本から解決することができないという気がしていたという。

   走り続けているうちに、300メートルが3キロとなり、やがて45分間で7キロを走るといった具合に、距離も延びていった。自分のライフスタイルの中に、走ることが組み込まれ、走ることがあるから、いつも機嫌よく過ごせるようになったそうだ。

   評者自身を振り返っても、月イチのランニングがマラソンへと発展した背景には、仕事の重圧や家族の病気など、己を突き動かす事情があった。マラソンを趣味とする者の中には、こうした止むにやまれぬ状況を契機として、走ることに目覚め、いつの間にか日常に欠くことのできない習慣となってしまった者も多いのかもしれない。

走り続けることで、得られたこと

   本書では繰り返し、走り続けることで得られる様々な効用が述べられている。そのうち、評者自身も大いに賛同する、いくつかを紹介したい。

   その一つが、「頭がすっきりすること」。

「仕事をしていると、頭のなかにはさまざまな情報や感情、タスクや知識が溜まっていき、パンパンになります。次第にヒートアップしてきますし、そのあげく、思考がしばしばフリーズするような状態に陥ります」
「けれども、走ることによって頭がリフレッシュされ、クールダウンされ大事なものだけが残るのです。走るというきわめてシンプルな時間は余計なものをふるい落とし、どうでもいいことを忘れさせてくれます」

   本書で著者と対談した西本武司も、面白い発言をしている。

「どんな問題も走ると、だいたいのことが解決するんですよ。『渋谷のラジオ』を立ち上げるときも難問だらけで、途方に暮れていても、翌朝その宿題を持って走りに行って1時間もすると、なぜか答えが出る。出ない場合はもう30分余計に走る。答えが出たら急いで家に帰ってメールを打つみたいな。だから、僕は走れるあいだは大丈夫かもしれないって思っています」

   もう一つは、「自分に自信ができてくること」。

「『走ること』は自分にとって必要不可欠だと頭ではわかっていても、じつは家を出るときには億劫さを感じることがあります」
「億劫な気持ちは厄介ですが、当然のもの。だからこそ、それを振りきるように、自分のやりたいことをやりぬく。意識的にがんばる必要もあるということです。毎日、一歩踏み出すことはできている自分がいれば、ほかのことを億劫に感じる自分に対して、少しは気持ちが強くなるでしょう。『億劫なことくらいいくらでもある』と自分に言い聞かせ、毎日走ることを習慣にしてしまう。それはある種の自分の力になります」

   そして、「ひとりきりになって、自分自身に向き合うこと」。

「走っている時間は、誰とも一緒ではなくて、たったひとりきりになる時間です。この『ひとり』ということが、ある種の精神的なレッスンになったのだと思います。じぶんとゆっくり向き合い、自分自身を知る時間です」
「走るという習慣を通じて自分の強い部分や弱い部分に向き合ってきました。ライフスタイルのなかに取り入れることで、ランニングも読書や仕事や家事などと同じように積み重なり、ほかのものと化学反応を起こして、ゆるやかで豊かな心の成長をもたらすのだと思います」
「走り始めはつらいし、『寒いな』、『暑いな』などという程度のことしか感じていません。ですが、『今日の体調はどんな感じ?』と問いかけ、自分の身体に耳を澄ませています。走りに慣れてくると、『虫が鳴いているな』、『今日は空気が澄んでいるな』、『ああ、梅が咲いてきたな』などと、ふだん使わない感覚のほうが働くようになります」

   これらは一見、取るに足らない地味な感覚と受け取られるかもしれないが、評者にとっては、実によくわかる感覚だ。ランニングの習慣を有する者が走り続けることを止めない理由は、こんなところにあるのではないかと思う。

これからも走り続ける――「美しさ」を追求する――

   走ることが生活の一部になっている著者にとって、これからも走り続けることは当然として、今後、何をテーマとするのか。

   著者は、「美しく走る」だという。

「ただ暮らしにランニングを取り入れるだけなら、7キロを45分で週3回で十分なのです。けれども僕は、もっと上の世界を生み出したい、そこを体験して自分を発見したいと思いました。そこで、それ以降は、自分のマラソンのテーマを『美しく走る』にすることにしました」

   著者にとって、美しさとは普遍的なテーマであり、人生のすべてに通じるものだというのだ。

「美しさは、偶然出会った何かがきっかけになって手に入るというほど、簡単なものではありません。ましてや、どこかで落ちているものを拾ってきたりするようなものでもありません」
「速く走るよりも、1キロに5分45秒をかけて、ていねいにすべてに神経を行きわたらせて遅く走るというのが、ことのほか大変なのです」
「走っているとき、バタバタとやってくる人もいれば、スッスッスッとやってくる人もいるし、ペタペタとやってくる人もいる。一番いいのは、音がしない走り方です。また、美しく走るには呼吸が乱れないほうがいいのです」

   ランニングと「美」を結び付けて考えたことがない評者にとっては、意外な指摘だったが、ランニングの高みを目指すとはこういうことかという気がした。常に自分を変えるためにチャレンジを続けることで、新しい発見があるというのだ。

「走ることはただの運動ではないのです。走ることに向けてのさまざまな営みをとおして、生き方についての大切なことがたくさんみつかりますし、漠然としていたものがはっきり見えてきます」

   来月は「東京マラソン」が開催される。評者は第1回大会から抽選に落ち続けてきたが、今回ついに、応募すること12回目にして初めて当選。初挑戦の機会を迎えることになる。タイムは全く期待できないが、自分なりのペースを守って、最後まで走り続け、新しい何かを発見したいと思っている。

JOJO(厚生労働省)

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