The End of a History? ― 近代の黄昏(?)に近代化論の清華を再読する
■『日本資本主義発達史』(野呂栄太郎著、岩波文庫)
■『日本資本主義分析』(山田盛太郎著、岩波文庫)
日本資本主義論争とは、1920年代後半から30年代におけるマルキスト陣営内の論争であり、もう90年ほど前の論争である。明治維新の歴史的位置付け、日本資本主義の性格をめぐって議論がたたかわされた。論争は陣営の戦術論と密接に絡み、明治維新をブルジョア革命と規定し、社会主義革命へと一挙に進むべきと主張する一段階革命論(労農派)と、維新を不徹底な革命とみなし、当面の焦点を封建的残存物に対する闘争と考える二段階革命論(講座派)の間で争われた。
日本は近代をどのように受け入れたか
なかでも、講座派は日本資本主義の理解において独自の深みに達し、後世へ大きな影響力を持った。講座派の論客であった野呂栄太郎による『日本資本主義発達史』(1930年)は、維新が不徹底なブルジョア革命に終わった理由として、急速な産業革命のため政府の保護政策が必要とされたことや、「世界資本主義の自由主義より帝国主義への転向」と国内無産階級の台頭に対応するため、地主と商工資本家の間で妥協が成立したことをあげている。いずれせよ、結果的に農業における封建的生産様式が十分に揚棄されなかったことで、農民は「資本主義と半封建的土地制度との二重の搾取の下に」おかれ、窮乏化した。これに伴い、国内市場は狭隘なものにとどまり、日本資本主義は異常に初期段階から対外侵略性を持つことになったという。山田盛太郎による『日本資本主義分析』(1934年)も同様に、「日本における比類なき高さの半隷農的小作料とインド以下的な低い半隷奴的労働賃金」との相互規定関係が、日本資本主義の発展の絶対条件であったと論じた。高小作料が低賃金で働くことを止むを得ないものとし、低賃金が高小作料での耕作を受け入れさせ、小作人・労働者からの強度の搾取が可能となったというのである。
こうして無理を重ね、封建制と資本制の雑種として立ち上がった日本資本主義であったが、総体的にみて日本は遅れた農業国のままであった。山田は、軽工業、重工業とも「先進国におけると日本におけるとの間の距離は自明である」と指摘している。低賃金故に「自分の発明した自動繰糸器械を使ってみたいが、日本の製糸業は工業として50 年以上遅れている」との報道を取り上げ、本格的な機械化による生産性向上の前で立ちすくむ、製糸業の姿を描いている。重工業は兵器生産と密接な関連をもつが故に、軽工業以上に政治的必要に基づいた産業創出が遂行された。しかしながら、「当時世界最大戦艦薩摩」の建造など一点豪華主義的な成果はあるものの、「その昇隆にもかかわらず、日本の製鉄業の規模の狭小さ」は明らかであると切って捨ててしまう。重工業の力不足は軍の機械化までも遅らせた。「(軍において)密集化の用法が行われ、夜間操作に重きが置かれているのは、仮想対象の顧慮にも依拠する所であるとはいえ、機械化の低位の然らしむる所にある」との指摘は、のちの対米戦の帰趨を知る我々の耳には、予言的な響きをもって聞こえる。
このように無理に無理を重ねつつ、近代化の先頭に伍していこうとする日本の姿は、現代の我々からみても身につまされるものがある。現代を生きる我々にも直接訴えかけるものを持っている。両著はその現代性という正しい意味で「古典」の名に値するものである。
近代化論という思考枠組の揺らぎ
このように、日本の抱える課題を、近代化の先頭からの単線的な遅れととらえ、その遅れが特殊で脆弱な問題の構造を作り出しているという思考枠組は、この時代に限らず、明治以来戦後になっても一貫してつづいてきた。1980年代の高揚のなかで、「久しく後進性のあらわれとみなされてきた日本的特質の再評価」という問題意識に基づきつつ、「日本的特質を十分に包摂する普遍的な分析モデル」(村上泰亮)の構築を目指す動きもあった。ただ、村上の遺作となった『反古典の政治経済学』の主題として選ばれたのは、費用逓減の経済学に基づく「開発主義」の一層精緻な定式化であり、単線的な近代化論への回帰でしかなかった。
ところが、このところ、この思考枠組についに変化がおこるかもしれない気配が漂っている。中国などの旧大陸諸国の爆発的発展、近代化の先頭での民主主義の機能低下や技術的先導性の揺らぎに基づくものである。新興国はその規模にとどまらず、その質においても従来の先進国の地位を脅かす存在となっている。情報通信技術が自由主義の申し子のように理解されてきた時代は幕を閉じつつあるのかもしれない。情報通信技術が社会統制の手段となり、翻って社会統制が技術革新を生み出す(例えば、中国における顔認証技術の発展をみよ)。自己決定権という価値に基礎的性格を認めない社会でこそ、情報通信技術やさらには生命科学はその本領を発揮するのかもしれない。西側のSFや哲学では、これらの新技術への違和感が繰り返し表明されてきた(※)。これらの技術は個人に深く浸潤する特性を持っているのであるが、これらの違和感は新興国では易々と乗り越えられてしまう。思考枠組みにこのような変容の気運が満ちたのは、実に野呂や山田の生きたロシア革命後の諸情勢のなかでのこと以来である。
日本国民の大多数の気分を代弁すれば、むしろ単線的な近代化論のなかで、思考をつづける方が、楽で安全であるから、思考枠組の変動をなるべく認めないようにしたいといったところに違いない。実のところ評者にも、そうした気分がないわけではない。もっとはっきりいえば、近代化のなかで見出されてきた、リベラルデモクラシーは人類共通財産ともいうべき巨大な達成であると考えており、「未完のプロジェクト」である近代は、いまだ積極的な擁護に値するとさえ思っている。
近代の継承という立ち位置に立つか、それともその乗り越えに積極的に加担するか。いずれにせよ、そのどちらの位置に立つにせよ、単線的な評価軸のなかで自分のどこに問題があるか把握し、その改善にまい進するというプラクティスに終始する時代は過ぎ去った、と腹を決めなければならない。複数の軸のなかから、みずからの進むべき、あるいは進みたい方向性を見つけ出す作業の価値が高まっている。かつて社会主義の衝撃のなかから福祉国家が生まれたように、近代の承継を選び取ることでさえ、従来の路線を墨守することを意味しないのである。
はたして、野呂や山田の著作が古典たる地位を失う日は迫っているのだろうか。遠い過去の経済構造についての同時代的認識を記述した「史料」となる日が来るのだろうか。
(※)評者は「機械技術、生命科学の進歩で際立つ『人間性』の脆弱さ」(2016年6月)において、これらのSF、哲学作品を論じたことがある。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion