オネゲルの最後の作品「クリスマス・カンタータ」20世紀の苦悩も内包した名曲
近代になり政教分離が徹底し、今や多民族かつ多宗教な国々が多いヨーロッパ諸国ですが、それでもカトリックの総本山ローマと、プロテスタント発祥の地ドイツなどがあるため、「クリスマス」には特別感が漂います。キリスト教と距離のある日本のクリスマスは、サンタクロースや、クリスマスケーキや、チキンや、恋人たちの夜・・みたいなキーワードが踊りますが、ヨーロッパの大部分の人たちにとって、クリスマスは教会や家庭で静かに祈る宗教的な日々です。ちょうど、縁日は華やかでも、寺社参拝には厳かさが漂い、一族が集まることの多いお正月に似ています。
今日は、クリスマスにふさわしい、20世紀の曲、アルチュール・オネゲルの「クリスマス・カンタータ」を取り上げましょう。
20スイスフランの「顔」
この連載で、オネゲルは、過去に「パシフィック231」(参考:フランス生まれのスイス人..."鉄オタ"オネゲルの機関車を描いた「パシフィック231」)や、「夏の牧歌」(参考:スイスアルプスの夏のさわやかな夜明けを感じることのできる、スイス人オネゲルの「夏の牧歌」)などで登場しました。
フランスのノルマンディー地方、ル・アーヴルの生まれですが、両親がスイス人だったために、「フランス生まれのスイス人」という立場で、プーランクやミヨーとともに「フランス6人組」に参加しましたが、スイスのお札、20スイスフランに肖像画が載っている人でもあります(2017年5月に肖像画を掲載しない新紙幣が発行されたので、これから流通が減るようです)。
1892年生まれのオネゲルは、両大戦間も、フランスにとどまりました。同じ6人組の仲間でもユダヤ系だったミヨーは身の危険を感じ、南米に逃れていましたが、オネゲルがスイスに隠遁することはありませんでした。
1940年、スイスのゼルツァッハの地域のための受難劇を共同で制作しないかと、友人の劇作家セザール・フォン・アルクスから持ち掛けられます。南部アルプス地帯のドイツやオーストリア、そしてスイスには、中世から伝わるキリストの受難劇を村人総出で作り上げていく伝統があり、アルクスとオネゲルは第2次大戦中の困難期に新たなる受難劇を構想したのです。
しかし、この話は、アルクスが1949年に妻のあとを追うように自殺してしまったために頓挫します。旧約・新約聖書をもとに8時間にも及ぶ大作になるはずだった受難劇は、ショックを受けたオネゲルによって封印されてしまいます。
1951年になって、指揮者で合唱団も設立したパウル・ザッヒャーが、未完の受難劇の草稿から、一部分でもよいから、抜粋し、新たなるクリスマスの曲を作らないかと、持ちかけられます。
オネゲルはそれを聞き入れて、1953年にこの「クリスマス・カンタータ」を完成させたのです。
ドイツとフランス、もう2度と対立せず融和してほしい
バリトンソロ、子供の合唱、混声合唱、それをオルガンと管弦楽が伴奏する「クリスマス・カンタータ」は、歌詞にラテン語、ドイツ語、フランス語、が採用されています。
混沌としたくらい導入部のあと、中間部では、3つの言語でそれぞれ有名なクリスマス・キャロルが出現し、そこに天使の声ともとれる児童の合唱が合流して、壮大で感動的なクライマックスへ向かいます。近代の作曲家ですから、現代音楽的な難しさを感じる部分もあるのですが、それだけに一層、なじみある「クリスマスの旋律」が聴こえた時には、神々しささえ感じさせます。
そこには、クリスマスを祝うという本来の意味と、未曽有の第二次大戦のあと、ドイツとフランスという大国が、もう二度と対立などせず、融和してほしい、という隣国スイス人オネゲルのメッセージも、込められているような気がします。
オネゲルは、1955年に亡くなりました。この曲の初演のわずか2年後です。事実上のオネゲルの遺言となった「クリスマス・カンタータ」は、21世紀になっても聖地エルサレムなどでの混乱を起こしている我々人類に、いまでも重要なメッセージを投げかけているのかもしれません。
本田聖嗣