変奏曲史上屈指の大傑作 ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」ができるまで
先週は、J.S.バッハの晩年の傑作、「ゴルトベルク変奏曲」を取り上げましたが、今週は、それと双璧、いや、クラシック鍵盤音楽史上最高の傑作変奏曲の呼び声の高い、ベートーヴェンの「ディアベリのワルツ主題による33の変奏曲」を取り上げましょう。
まず、前提として、ベートーヴェンは若いころ・・具体的には30歳ごろまで、「変奏曲ピアニスト」でした。作曲家のように曲を作って楽譜を出版し生計をたてるのではなく、貴族の館でも酒場でも、その場でもらった主題や当時の流行歌を即興的にピアノで変奏して聞かせ、それで報酬を得る、という仕事です。
古典派のこの時代は、まだ「専業作曲家」が確立していないのと同時に・・・実は、フリーの専業作曲家はベートーヴェンがその嚆矢でした・・・「専門演奏家」つまり、現代のようなピアニストも職業的に確立していませんでした。この時代の「ピアニスト」はすべて、その場で作曲しつつ演奏する、現代で言えばジャズ・ピアニストのような仕事をしていたのです。
ロマン派以降の、演奏家が長年繰り返し練習しなければ見事に演奏できないレパートリーはまだ登場しておらず、演奏に特化する専門家が必要とされていなかった、ということと、何より、ピアノが単独で演奏する独立楽器としては、まだおぼつかない性能でしかなかった、ということも背景にあります。
これはまだ私の意図する「大変奏曲」の完成ではない
30歳ごろからベートーヴェンは作曲専業を指向し始めます。ちょうど同時期から耳の病気が彼を襲ったので、彼にとっては偶然かつ幸運な転向だったわけですが、ベートーヴェンは作曲家になってからも、たくさんの歌を生み出すオペラ作曲家というよりは、鍵盤楽器を使ってピアノ作品や室内楽作品、そしてオーケストラ作品を、構築的手法を持って作り出す、という傾向が強く、これは、彼の「即興ピアニスト」としての経験が影響しているようにも思われます。
ハプスブルグ帝国が、対ナポレオン戦争に燃えている1819年、ザルツブルク生まれの音楽出版業者にして作曲家でもある、アントン・ディアベリが、自らの書いたワルツを主題に、当時帝都ウィーンで活躍していた有名作曲家たちに変奏曲を書かせ、愛国的な壮大な変奏曲集を作ろうと思い立ちました。彼が声をかけた作曲家の中には、フランツ・シューベルト、ネポムク・フンメル、ベートーヴェンの弟子でもあり「練習曲」で有名なカール・ツェルニー、さらにはその弟子のまだ若干11歳だったフランツ・リスト、さらにはベートーヴェンの支援者であった音楽に造詣の深いルドルフ大公、といった人たちまでが含まれ、当然、すでに有名作曲家だった49歳のベートーヴェンにも声がかかりました。
プライドが人一倍高いベートーヴェンは、ディアベリの作曲した主題を軽蔑し、1曲だけ変奏曲を作って、「大人数による変奏曲集に参加する」ということはしませんでした。1819年中に、23の変奏曲を作ったのですが、「これはまだ私の意図する『大変奏曲』の完成ではない」と知人に書き送っています。
このころのベートーヴェンは「ミサ・ソレムニス」や後期のピアノソナタ作品といった大曲を作曲していて、「ディアベリの主題による変奏曲」はしばらく放置されていました。1823年に突如この変奏曲に戻ってきて、結局、トータルで、33もの変奏曲を作り上げたのです。
史上最高のピアノ変奏曲
変奏曲、というのは通常与えられた主題のメロディーや、ハーモニーの進行状況を活かして数々の曲を作り上げてゆくものです。そのため、最後まで、メロディーの断片や、同じような和声進行が聴こえるのが通例ですが、ベートーヴェンは「ディアベリ変奏曲」において、究極の変奏曲を目指したため、テーマは細分化され、途中からもう原曲の面影はほとんど感じることはできません。
彼がディアベリのワルツ主題に対してリスペクトしていなかったことは明らかですが、だからこそ、そのテーマ曲を換骨奪胎して、ベートーヴェン・オリジナルの変奏曲の壮大な世界を作りだしたのです。
演奏に一時間近くかかるこの大作ですが、早速自分の会社から出版したディアベリをはじめ(ちなみに、のちに、ベートーヴェンの作品単独で第1巻、第2巻は50人の作曲家による50の変奏曲として出版し、当初の目的も達成しています)後世の作曲家・ピアニストによって絶賛され、現在では、「史上最高のピアノ変奏曲」といわれています。
本田聖嗣