東浩紀氏の新展開と欠落について

   ■『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀著、株式会社ゲンロン)


   『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年)の著者東浩紀氏の紹介に紙面を割く必要はないだろう。霞が関で氏の名を耳にしたことはあまりないけれども、21世紀の日本語論壇の中心に居つづけた人物である。評者もその著作をおおむね同時代的に読んできた。『動物化するポストモダン』(2001年)で、コジェーヴから借用して現代によみがえらせた「動物化」という言葉は、時代を切り取る言葉である(※)。『一般意思2.0』(2011年)は民主主義の新たな可能性に目をひらかせる好著である。

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「観光客の哲学」だって?

   『観光客の哲学』という表題は、「観光客」と「哲学」という取り合わせの悪い言葉から、一見してもなにを論じているのかさっぱりわからない。その内容を要約することはむつかしいが、その結論めいた部分を引用しよう。

「ここでぼくたちは、グローバリズムへの抵抗の新たな場所を、...スモールワールドとスケールフリーを同時に生成する誤配の空間そのもののなかに位置づけることができるのではないだろうか。誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと、それこそが抵抗の基礎だと考えられないだろうか。...いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導きいれ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる」(『観光客の哲学』(p191-192))

   東氏の著作を読んだことのない読者は理解できないかもしれない。『一般意思2.0』にある次の記述ならばどうだろう。「重要なのは、どのようなタイプのネットワークであればひとは閉じ籠り、逆にどのようなタイプであれば他者に出会うことができるのか、その差異を見極めることなのだ」。著者が説いているのは、固定メンバーでメンバー間の関係も固定的な閉鎖的なコミュニケーションを、外部との偶然の出会いに開かれ、相互の関係も可変的なコミュニケーションに作り替える必要性なのである。

   この新しいコミュニケーションの実例として『一般意思2.0』ではニコニコ生放送を取り上げていた。専門家などが意見交換する放送をみている視聴者が、リアルタイムで短いコメントをする。そのコメントを専門家と他の視聴者がみることで、意見交換に偶然的展開が持ち込まれる。「観光客」は、「専門家による熟議」に対し投げ込まれるコメントに相当するものである。世界規模のコミュニケーションを論ずる『観光客の哲学』において、観光客は固定的で不平等な世界秩序(帝国の体制)に偶然を導きいれるものと期待されているわけである。

消された(?)「専門家による熟議」

   『観光客の哲学』を読み進めるなかで、評者の目からみて、いつ論じられるかと期待して頁をめくりながらも、ついに取り上げられることなく終わった論題がある。その論題とは、観光客によって偶然に導かれるはずの「専門家による熟議」に相当する「なにか」についてである。

   『一般意思2.0』では、この「専門家による熟議」にポジティブな役割が与えられていた。このポジティブな位置づけが、ネットワーク時代の新しい民主主義のあり方を提言する同著の議論の実効性、すなわち「これは使えるかもしれない」と感じた評者のわくわく感を支えていたのである。

「筆者は集合知によって条文や政策が作れるとは考えていない。集合知は情報の取集や誤りの修正には力を発揮するが、ゼロからの創造には向かないからである(わかりやすく言えば、それが事典製作や事実報道には向いているが、長編小説や政治文書の製作には向かない)。したがって、集合知はあくまでも熟議に対する抑制力としてのみ用いるべきだと考えている。ひらたく言えば『ツッコミ』にのみ使うべきだと考えている」(『一般意思2.0』p192)

   『観光客の哲学』においても、その「なにか」がまったく存在しないわけではない。その「なにか」とは、もちろん帝国の体制のどこかにあるもののことである。ただ、『観光客の哲学』では、『一般意思2.0』におけるような、帝国の体制のどこかにあるそのものに関するポジティブな展開がみられない。いわば「ツッコミ」についての記述に終始しているのである。これでは「使えるかもしれない」という、手に汗握る感触が生まれてこない。

   この欠落はなにを意味しているのだろうか。単に紙面の制約から、ポジティブに展開しなかっただけのことなのかもしれない。いずれ著者によりその「なにか」についてポジティブに語られるのを目にする日がくるのを待てばよいのかもしれない。ただ、実のところ、その課題が格段に困難なものであり、著者をもってしても、軽々に扱うことのできなかったものであった可能性もある。一国(あるいは同一言語)のメディア環境のなかでの「専門家による熟議」に比べると、帝国における「専門家による熟議」に相当する「なにか」をとらえることは、むつかしいことである。我が国における「専門家による熟議」の場としては、国会であったあり、討論番組であったり、ネット中継された「事業仕分け」であったり、具体的な場を想像することができる。他方、帝国における熟議の場とはどのようなものだろう。G20サミットのようなもの、あるいは種々の言語で書かれた雑多なSNSが作り上げるとある構造であろうか。それは充分に育っていないか、少なくとも一般市民の間にはまだ姿をあらわしていないのかもしれないし、いやそれとも、「大文字の他者」の衰退するなか将来においても存在しないものなのかもしれない。

   ニクラス・ルーマンの言葉を使えば、はじめに多様で浮動的な民意を「縮減」する熟議の場があり、その場を偶然へと導く「ツッコミ」があるのである。しかしながら、『観光客の哲学』では、「縮減」の手順を経ないまま、「ツッコミ」だけが展開されていく。

新たに加えられた「偶然のこどもたち」

   消された(?)ものがある一方で、『観光客の哲学』に至って、新たに加えられたものがある。

「子どもとは不気味なもののことである。新生児の顔は実際に不気味である。子どもは、自分にとってもっとも親密でありながら、拡散し、増殖し、いつのまにか見知らぬ場所にたどりついてぼくたちの人生を内部から切り崩しにかかってくる、そのような存在である。...ぼくたちは、必然にたどりつく実存になるだけでなく、偶然に晒されつぎの世代を生みだす親にもならなければ、けっして生をまっとうすることができない。...子として死ぬだけではなく、親としても生きろ。...むしろここでの親は必ずしも生物学的な親を意味しない。...親であるとは誤配を起こすということだからである。そして偶然の子どもたちに囲まれるということだからである」(『観光客の哲学』(p299-300))

   『観光客の哲学』は、第一部の「観光客の哲学」につづく第二部を「家族の哲学」と題している。家族が持ち出されているのは、個人でも国家でも階級でもない、第四のアイデンティティとしての家族に期待がかけられているからである。アイデンティティになぜこだわるのか。著者は、アイデンティティとして使える実質がないと、抵抗は「お祭り」化した短期的な動員しか生み出すことができないからだという。

   国内外を問わず、ネットを媒体として生まれた大衆行動がみられる。なかには持続性を持たなかったものが少なくないことに鑑みると、アイデンティティという着眼点には「なるほど」と思わせるところがないわけではない。

   そしてはっきり言えば、評者は「偶然の子どもたち」という着想にはすこし興奮さえ感じている。「個人」についてはいうまでもなく、「国家」にしても「階級」にしても、エゴを「国家」や「階級」に拡張し、エゴの思いを「国家」「階級」に託するという面があるのであり、その限りでは、エゴの世界を出るものではなかったと思う。しかし、ここで「偶然の子どもたち」を引き受ける「不能の父」に至ってはじめて、エゴの息苦しい閉域から踏み出したアイデンティティの新しいあり方を見出すように思うのである。

「家族の哲学」という新展開では埋め切れない「専門家による熟議」の欠落

   このように『観光客の哲学』になってはじめて加えられたものには、どこか新展開を期待させるものがある。しかしながら、同時に評者は「専門家による熟議」の欠落が気になって仕方がないのである。

   ネットに触発された大衆行動がいまひとつ芳しい成果を生んでいない訳は、アイデンティティの不足による動員の持続力の弱さもさることながら、実のところ具体的な改革の叩き台となる案を提示すべき「専門家による熟議」を欠いていることのほうが大きいのではないか。

   「アラブの春」が政権の打倒ののち迷走し悲劇を生んだのは、政権を倒したあと政治・社会・経済を機能させる仕組みが用意されていなかったことが最大の原因ではないのか。国内での街頭行動がいまのところ持続的な成果を生んでいないのも、変革後に世の中の仕組みをどうするのか、具体的なブループリントが存在しない、少なくとも存在しないようにみえていることが主因ではないのか。「偶然の子どもたち」を引き受ける「不能の父」が人間の新しい可能性を拓いているようにみえるとしても、その父たちの利害が相反し互いに争っていることこそが現実社会を悩ます問題なのであり、必要なのはその利害を調停するプリンシプルと社会の仕組みなのではないのか。『一般意思2.0』で指摘されているとおり、「ツッコミ」は「政治文書」の作成には向かないのである。

   『一般意思2.0』と『観光客の哲学』の構想を模式的に対比したのが下記である。

『一般意思2.0』

「専門家による熟議」×「ツッコミ」= 一般意思2.0による国家・社会

『観光客の哲学』

「欠落」×(「観光客」powered by 「家族」)= 帝国後のグローバル/ローカル社会

   「専門家による熟議」の項が欠落のままでは、『観光客の哲学』の解たるべき、「帝国後のグローバル/ローカル社会」は無秩序のままである。

   評者としては、当代一の物書きのひとりである著者に、「家族の哲学」の開拓にとどまらず、いまいちど「専門家による熟議」についての展開を期待したいと思っているのである。彼の書いたものが、評者の世代の残し得る最良の遺産のひとつとなるのは間違いなく、同時代人として後世によきものを残したいと願うからである。もっとも、期待は応えられず、きたる続編では、無秩序を生きる「偶然の子どもたち」と「不能の父」の姿が活写されているのを目にすることになるのかもしれない。それはそれで読んでみたいとは思うけれども。

   ※評者は『機械技術、生命科学の進歩で際立つ「人間性」の脆弱さ』(2016年6月)で、ジョナサン・グラバー(『未来世界の倫理』)による、ドリームマシーン(映画「マトリックス」のような幻の経験を与えるシステム)で満足させられない経験として残るのが、人格的交流と科学的研究であるとの説を論じている。評者にはこのふたつは頼りないものにみえる。人間は、幻の家族との生活や、幻の科学実験を通じた幻のパラメーターの発見に熱中することに終始してしまうのではないか。この「人間性」の脆弱性の認識のもと人文系の知識人がどう振る舞うのか、東氏の著作はそのひとつの振る舞い方を実践しようとしているようにみえる。

経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion

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