生き残った高級参謀が記した「本当の沖縄戦」―決戦か持久か、真相を知るのはただ1人―

   ■「沖縄決戦 - 高級参謀の手記」(八原博道著、中央公論新社)


   沖縄に関心を持ったのは、平成7年秋、米兵少女暴行事件を契機とする沖縄問題のうねりの中であった。当時の知事、大田昌秀氏の著書を読み、戦中戦後の沖縄の歴史をあまりにも知らない自らを恥じた。琉球米国民政府の下、高等弁務官が統治し、在留米軍にとどまらない多くの問題が生じていたことを知った。本土と沖縄の認識のギャップが永年埋まらない背景には、占領下の沖縄への理解不足があると感じた。

   では、沖縄戦についてはどうであろうか。

「県には既に通信力なく三十二軍司令部又通信の余力なし・・緊急ご通知申し上げる。・・県民に対し後世特別の御高配賜らんことを。」

   海軍沖縄方面根拠地司令官、大田実少将が、昭和20年6月6日、海軍次官あてに発信した電報は広く知られている。

   しかし、主力の陸軍第三十二軍がどのように発足し、どのように戦ったのかはあまり知られていない。その史実を克明に綴った書が「沖縄戦線―高級参謀の手記」である。著者は八原博通氏、明治25年生まれ。第三十二軍高級参謀、陸軍大佐として、軍司令官と参謀長を補佐し、作戦計画の責任者として戦い、生還した人物。氏は昭和47年に本書を世に問うた。「沖縄作戦は、決戦か持久か、その間の真相を知るものは私唯一人と確信する」からと。

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「諸子はその任務を完遂せり。予の指揮は不可能となれり」

   陸軍第三十二軍は、昭和19年3月、マリアナ線、フィリピン防衛の後方部隊、大本営の直轄部隊として誕生した。八原大佐の着任時の所感が記されている。「およそ何人といえども、そのおかれた立場から本能的に将来を予測し、自らの対策と覚悟を決めるものである。軍用語でこれを状況判断という」と。着任まもなく、沖縄で大規模な地上戦が行われ、多くが最期を遂げると察したのである。

   その後、大本営から作戦軍令が示されない中、牛島司令官は「本土決戦を一日でも遅らせること」を任務と定め、洞窟の整備に精励した。勝利以外の目的を掲げる作戦である。かかる作戦は、陸軍が採用した稀有なものであり、日本の行く末を願うが故であった。そして、住民の疎開、食糧の確保など沖縄県および警察と一致団結しての準備が進んでいくのである。本土疎開は、残念ながら企図したとおりには進まなかった。

   翌年3月23日、沖縄戦が始まり、陽光を見ない洞窟生活が始まる。撤退を繰り返しながらの戦闘が続く中、司令部は摩文仁に後退し、6月18日に最後の命令を発する。「親愛なる諸子よ。諸子はその任務を完遂せり。予の指揮は不可能となれり」牛島満中将および長勇参謀長は、6月23日に摩文仁で自決し、沖縄戦は終了する。

   約10万人の軍人・軍属の戦死者、住民の死者が約9万人にのぼる沖縄戦を私たちがどう引き継いでいくのか、考えさせられる。

本土に生きる我々の責任とは

   摩文仁の丘には兵士の墓碑があり、北海道から沖縄県まで全県の兵士の氏名がある。多くの部隊が沖縄に転進してきた結果である。沖縄県平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館を訪問すると、昭和十九年以降のできごとが克明に展示されており、なかでも、ひめゆり学徒隊の野田貞雄校長の展示が目を引く。

   3月29日、米軍の爆撃をかいくぐり、南風原陸軍病院の地下洞窟に赴いた野田校長(熊本県益城町出身、6月20日、53歳で戦死)は、卒業証書もない中、「米軍の爆撃下、ろうそくの灯火で行われる卒業式は、世界に比類をみないものである。教職の内示を受けた各位におかれては、任務を完遂し、速やかに任地に赴いてほしい。」との送辞を述べている。熊本出身の野田校長の胸中には、沖縄戦の待つ彼女たちの悲劇を見通しておられたのではないか。

   沖縄県の嶋田叡知事(兵庫県神戸市出身、43歳)は、周囲が止める中、昭和20年1月、米軍上陸必至と見られる沖縄への転任を快諾した。軍の作戦を有利に導くとともに、住民を守ることにまい進し戦死した知事は、作戦の行く末を十二分に理解していたのではないか。

   6月23日には、戦没者に尊崇の念を表すとともに、一日も永く生きようと立ち向かわれた方々、そして沖縄の今に思いをいたす。このことが、本土に生きるわれわれの責任ではないだろうか。

   それへの確かな手がかりが本書である。

(経済官庁 YK)

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