「民謡マニア」のバルトーク 収集したトランシルヴァニアの曲をまとめた曲集が大人気に
このコラムで、民謡を素材として扱ったクラシック曲、モーツァルトの「きらきら星変奏曲」や、ドビュッシーの「雨の庭」を取り上げてきましたが、今日取り上げるのはその名も「ルーマニア民俗舞曲」という名の組曲です。
「民族」と誤記されることもありますが、邦題は「民俗舞曲」となっています。この題名からすると、そのまま民謡を曲にしたかのような題名ですが、あくまでも民謡は素材で、クラシック音楽の技法を使い、五線譜に記されたピアノ曲です。
1881年生まれの作曲家、バルトーク・ベーラの作品です。彼は「ハンガリーの作曲家」とされることが多いのですが、(そのため、彼の名前の表記は日本語と同じ姓+名が正式です)彼の生地ナジセントミクローシュは、現在ルーマニア領となっています。バルカン半島は、第1次大戦の引き金になった「サラエヴォ事件」を持ち出すまでもなく、古くから土地の領主が入れ替わりの目まぐるしい場所で、「火薬庫」と呼ばれたりもしましたが、20世紀を生きたバルトークの人生にも様々な影響がありました。
民謡は「誇るべきオリジナルの音楽財産」
幼いころより、音楽の才能を発揮したバルトークは、ピアニストと作曲家を同時に目指し、コンクールも両方の部門で受験したりしていましたが、20歳を過ぎたころ、彼は運命的な出会いをします。それは、「民謡」というものでした。ドラキュラ伝説のモデルになったヴラド3世(オスマン・トルコに対して勇敢にたたかったため、トルコ側で「彼は吸血鬼だ!」と恐れられたのですが)が活躍したトランシルヴァニア地方出身者の歌う民謡を現在のスロヴァキアの地で耳にして、彼は、「失われてゆく民謡を録音し、楽譜に書き残そう!」という情熱に火が付くのです。
国が目まぐるしく変わり、ドイツやオーストリアといった強国であり音楽の中心国から見れば「辺境の地」に過ぎないハンガリーにおいて、民謡は「誇るべきオリジナルの音楽財産だ」ということに、バルトークは気づいたのです。
ちょうど、19世紀のロマン派の時代を経て、多少の行き詰まりを見せていた「クラシック音楽」は、ロシアや東欧諸国といった周辺の地や民謡に素材を求める「国民楽派」と呼ばれた作曲家たちによって、エキゾチックな音楽や題材を作品に盛り込むことが各国で盛んになった時代でした。もちろん、バルトークも、国民楽派の一人ととらえられています。
ハンガリーを代表するもう一人の作曲家にして盟友、コダーイ・ゾルターンと一緒にバルカン諸国、遠く北アフリカのアルジェリアまで旅をして民謡を「集めた」バルトークは、この青年期以降、民謡収集とそれを素材にした独自の曲の作曲が生涯のライフワークの一つとなります。
全体を通しても4分台という短い組曲
そんなバルトークが28歳の時、トランシルヴァニアの地で出会った民謡。それをもとに34歳の時に書き上げたのが「ルーマニア民族舞曲」です。ハンガリーの作曲家が隣国の民俗舞曲に興味を持った・・・わけではなく、当時、トランシルヴァニアはハンガリー王国領だったのです。第一次大戦の結果、現在までルーマニア領となっています。
「ルーマニア民族舞曲」は、6曲からなり、それぞれ「棒踊り」「飾り帯の踊り」「足踏み踊り」「プチュム人の踊り」「ルーマニア風ポルカ」「速い踊り」と題名がつけられています。
曲は6曲もあるのですが、それぞれの曲がとても短いので、全体を通しても4分台という大変短い組曲で、そのためか、バルトーク自身のピアノ演奏会においても、他の演奏家の演奏会においてももっとも取り上げられるレパートリーとなっており、人気の高まりのおかげか、バルトーク自身が1915年にオーケストラ用に編曲しています。
そのほか、たくさんの作曲家が独奏楽器とピアノのデュオ版などにも編曲したため、現在では、バルトークの代表曲の一つとして、演奏会で取り上げられることも多い曲になっています。
コンパクトな中にも、エキゾチックさを感じさせるトランシルヴァニア民謡が聞こえてくる・・音楽によって、遠いバルカン諸国の世界を旅したかのような気分が味わえる、近代ピアノの小規模作品の傑作です。
本田聖嗣