日本の精神医療の現場報告を、哲学や歴史の視点から読み解くことでみえてくるものがある
■『精神医療ダークサイド』(佐藤光展著、講談社現代新書)
■『なぜ日本は、精神科病院の数が世界一なのか』(織田淳太郎著、宝島社新書)
...何ものかが私の中で言っていた。「聖母は死んだ。おまえの祈りは無駄だ」。...司祭は私一人にだけ向けられているような話をはじめた。...そこにはふしぎな光景が待っていた。風に吹きとばされていく雲のあいまから、いくつもの月が飛び去っていくのが見えた。地球が軌道をはずれて、マストを失った船のように天空をさまよっている。そして、星に近づいては遠ざかるたびに、それらが大きくなってはまた小さくなってゆくのだと考えた。二、三時間ものあいだ、私はその混乱を眺めていたが、やがて中央市場のほうへ向かって行った。農夫たちが商品を持ってきていた。「夜がいつまでも続くことを知ったらどんなに驚くことか......」(ネルヴァル『オーレリア』(1855年)篠田知和基訳)
読んでいていたたまれなくなる描写である。19世紀フランスの作家ネルヴァルは精神の病に苦しみ、最期は自殺したという。ヘルダーリン(ドイツ)、ストリンドベリ(スウェーデン)など、心の病に苦しみつつ、後世に残る作品を遺した者は少なくない。彼らは紛いのない「見者(けんじゃ)」であり、凡習に塗りこまれた多数者にはみえない物事の真相をみていた。
我が国の精神医療の現場でなにがおこっているのか
ただ、こうした見者の遺した限られた言葉の蔭で、大多数の患者の体験する苦悩は、広く社会に知られないままである。そして、精神医療とその提供体制が、彼らの救いとなるどころか、その苦難を増すのに加担している。今回取り上げた両著はそう指摘している。
『精神医療ダークサイド』(2013年)は、読売新聞の記者である佐藤氏の取材に基づいて書かれている。報告されていることは、精神医療における誤診がおびただしく、病気でもないのに(ときには拉致まがいの手法で病院に連れられ)、危険な薬剤の大量処方を受け、精神医療に囚われの身となっている人々である。精神疾患の診断は客観性に乏しいぶん、ずさんな診断が横行し、薬や処置によって状態が悪くなったにもかかわらず、もとの病気が増悪したと片づけられてしまう。医療保護入院の適否を判断する県の精神医療審査会も機能していないという。最近も医療保護入院などの要否を判断する精神保健指定医の指定取得に大規模な不正があったことが報じられていた。
『なぜ日本は、精神科病院の数が世界一なのか』(2012年)は、うつ病経験のあるノンフィクション作家織田氏によるものである。福島原発事故を契機に当地のとある精神病院から避難してきた入院患者の多くが、医療上入院の必要のない人たちであったことを、個々の患者への追跡取材を通じて明らかにしている。登場する証人は、青年期から入院し病院で一生を終えようかという方や、避難を機にようやく病院から出て暮らそうかという方である。直近(17年5月)にも、NHK『バリバラ』が同じ病院の元患者からの取材に基づき同様の問題を報道していた。
そこにあるのが悪しき「パノプティコン」であることを諒解する
織田氏によると、日本には全世界の五分の一近い35万床の精神科病床があり(2001年と古い統計であるが、その後も病床数はあまり減っていない)、患者あたりの平均在院日数も諸外国に比べて顕著に長い。そして、こうした長期入院が広くおこなわれている原因は、1)病床の9割を占める民間病院が病床を無理に埋めようとすること、2)患者の保護義務を負う家族が患者を引き受けようとしないこと、3)社会に受け皿が不足していることであるという。
評者は過去の書評で、英国の哲学者ベンサムのパノプティコンを例に引いて、困窮者への支援に際し、個人をターゲットにしたミクロの介入(きめ細かい支援)の重要性が高まっていると指摘したことがある(「パノプティコン(全展望監視システム)で生きることは、本当にまずいことなのか」(16年9月)、「『直接民主主義』とパノプティコン」(16年11月))。そのなかで強調したことは、困窮者を対象として視るばかりではなく、社会から監視者自身が視られることで監視者の規律と公正を維持することの必要性であった。
両著の報告する日本の精神医療の現状は、社会による監視を欠いたパノプティコンが生み出す暗い側面を余すところなくあらわしている。診断に第三者が口を挟むことに医師は抵抗するものだが、精神疾患は病態に客観性が伴わないぶん、医師の裁量は一段と拡大しやすい。拍車をかけるのが金(カネ)の問題である。日本の精神病床の9割が民間病床であり、民間病院はなんとしてでも病床を埋めようとするものである。ベンサムのパノプティコン型の救貧施設、全国慈善会社は民営を想定し、費用を収容者の勤労から賄うものとされていた。公営であればよい、とは評者は思わないが、人身の拘束を伴う精神医療を民間が担う以上、そこにどう公の規律を課すかという問題には答えられねばならない。事態をさらにむつかしくするのが、その民間施設が政治的な声をもちはじめることである。病院は地域社会において有力な勢力であるし、集合的に行動することで、全国的にも監視者を視るべき行政を牽制することができる。
こうした精神医療の構造を念頭におきつつ、佐藤氏や織田氏の報告を読むならば(その報告が良心的な精神科医の存在によってはじめて成り立っていることは意に留めておく必要があるが)、我が国の精神病院のなかに、社会による監視なき悪しきパノプティコンがある、そうした批判にひとつの真理があることは認めざるをえない。
歴史から読み解くと、みえてくるのは「後発国の哀しさ」
我が国の精神医療が抱える構造は、実は日本の社会保障全体が抱える構造の縮図なのである。医療を全国に均霑する上で民間病院の整備に頼ったのは、精神医療だけではなく、医療全体にあてはまる。
我が国は後発国として資本蓄積がないところから出発したことから、近代化の過程で高まる社会的ニーズにどうこたえるか頭を悩ますことになった。限られた資源は戦前であれば軍事、戦後であれば経済に充当する必要があり、社会保障の優先順位は決して高いものではなかった。国民は租税負担の増に敏感で、社会保障の充実のための財源は充分には確保されなかった。このことは、特に社会保険の枠組みから零れ落ちる社会的弱者への支援において、重要な制約として働いた。
この資源制約の下で、サービス供給体制の整備はできる限り民間資源の活用によりおこなわれた。家族という伝統的共同体による保護を強調することで、サービスへの需要が顕在化しないよう管理が図られた。織田氏の報告によれば、病院を出ることができない人々が多数存在するのは、家族が引き取ろうとしないからであるとし、同時に、我が国では家族に保護責任を厳しく問い過ぎているとしている。
哀しき後発国である。
もちろん、我が国の社会保障における民間と家族の高い位置づけは悪いことばかりではない。むしろ、効率的で真に必要なニーズへのサービス提供への集中を可能にしていることは評価されてよい。
ただ、物事には両面がある。病院に数十年おられる方々も、本評を読んでいるあなたも、もとはといえば、繰り返しのきかない人生を生きている同じひとりの人間なのである。そのことへの想像力を欠くことは許されない。相模原事件にもかかわらず、患者の地域への移行という大きな方向性には変更がないようである。すると今度は、我々ひとりひとりが想像をたくましくし、彼らを地域で受け入れていけるかどうかが問われるのだ。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion