行間から美味そうな匂いが漂ってくる 「昭和」を駆け抜けた料理バイブル
■「完本 檀流クッキング」(檀一雄、檀太郎・晴子 共著)
昭和の男の料理本といえば、この本に行き着く。
文壇の快男児によるロングセラーが、昨年、そのご子息夫婦によって再現レシピ付で再刊された。檀一雄が国内外を放浪し、そこで見覚えた料理を始め、様々なレシピを紹介しているものだ。新聞連載をまとめたものだから一回分は見開き一ページで収まっており、150有余のレシピが収められている。
※平成の男の料理本としては、大饗膳蔵氏の『霞が関料理日記』ほか一連の著作を挙げたい。一読の価値がある。
旅と食材とその料理
檀一雄が言いたかったことは、一つだけだという。曰く「誰でも、自分の食べるものぐらいは、工夫をこらし、知恵をつくして、つくってみよう」(本書P330)ということだ。
だが読んでみると、工夫も知恵もどこへやら、例えば以下の如く、大雑把である。
「...鍋に水を張る。コンブを入れる。沸騰させる。ダイコンを入れる。塩辛のアミを入れる。水はヒタヒタより多い目に入れておいて、酒を加える。...」
大枠は示す、あとの工夫は各々凝らされたい、と言いたいものと察せられる。余白が大きな料理本である。
なんだ、では雑駁なレシピ集か、と侮るなかれ。
時に語りかけ、時に諭し、時に命令する短い口語文が、簡潔なレシピと合わさり、読むうちに眼前に料理を立ち上げてくる。軽快かつ独特の調子がある。理屈を言わない潔さがある。出来上がった料理の描写はほとんどないのに、行間から美味そうな匂いが漂ってくる。
檀一雄は、少年期、実母が出奔し、妹たちのため生きるために料理を身につけたと聞く。その故か、どの料理も気取りがなく庶民的だ。それが際立って食欲を刺激するのは、檀が旅の思い出とともに食材と調理法を語るからでもある。
開高健の著作に「賢者は旅の話をし、愚者は食べ物の話をする」という異国の言伝えが紹介されていたことを思い出す。その言葉に続けて、旅先での食べ物の話を書く自身を、開高は自嘲気味に分析して見せるのだが、檀は本書で、賢愚を超えた野人の活力を見せつける。生きることは喰うことだ、と言わんばかりの迫力である。
家庭料理の再評価
料理で思い出すのは、先日起きた、蜂蜜を与えられた乳児の死亡事故である。一歳以下では、蜂蜜に含まれうるボツリヌス菌に耐えられないためという。
素人がレシピを持ち寄るサイトが契機と聞くが、甘い飲料を喜んで飲んでいただろう幼子の様子を想像し、親御さんの御気持ちを思うと、本当にやり切れない。
料理する人は、入念に手を洗い、清潔な布巾を使い、じゃが芋の青芽は取る。子に料理の手ほどきをする親御さんで、こうしたことを教えない人はあるまい。家庭料理は、先人の蓄積の上に、連綿と安全な食を提供してきたはずである。
ネット上のレシピもそうした伝承の集合知であれば良いが、そうとは限らぬところに陥穽があった。現在、当該サイトは蜂蜜の離乳食について警告文を出しているが、他の食材のリスクは大丈夫か。子供の健康と成長を願って料理に携わる若い親御さんに、どうか丁寧に寄り添ってほしい。
親心と言えば、『檀流クッキング』も、最後の数回を「オフクロの料理」に求め、連載を終えている。檀一雄の少年期を思い、その遺作が、主人公が愛人を作って家を出る自伝的作品『火宅の人』であることを思うと、この締め括り方には、一瞬、戸惑わされる。
だが、諸国放浪の料理を経て「オフクロの料理」に帰ることは、「父、帰る」と相似形だ。食べてくれる相手があってこそ、料理もその甲斐がある。檀の料理好きも、そうした振る舞う喜びや団欒と一体のものであるとすれば、その意識の中心には、放埓な生活をしつつも、やはり家族があったのかも知れない。本書の、否、料理の原点を垣間見る思いである。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)