ホームホスピス、人生の最期に新たな出会いがある「もう一つの家」
■いのちつぐ「みとりびと」第3集(4巻セット)(写真・文 國森康弘、農村漁村文化協会)
評者はこれまでに3人の親を看取った。義父は病院のホスピスで、父は救命救急室(ER)で、義母は一般の病床であった。父は自宅で倒れ、その翌日に亡くなったが、義父母はいずれも「がん」だったから、日常生活動作は比較的自立しており、ぎりぎりまで自宅で療養し、最後に入院し、旅立っていった。
義母とは同居していたので、「願わくは在宅で」という思いはあったが、急激な衰えとせん妄の出現、さらに娘達のダブル受験が重なり、「ひとまず入院して体調回復を」という医師の勧めを天の声とばかりに受け取り入院させた。結果的には、そのまま状態は改善せず、家に戻ることはできなかった。
入院先は、我が家から自転車で5分のところだったから頻繁に通い、亡くなったときも、家族それぞれに看取ったという感覚があったが、果たして、義母自身がどう思っていたのかはよくわからない。
誰にでも訪れる「死」であるが、実のところ、評者自身、自分の場合にどうなるのかは全く想像できない。「死」が怖くて考えたくないのか、それとも家族が当てにできないから考えたくないのか、きっと、その両方なのだろうが、いずれにせよ全くの準備(覚悟)不足である。
現在、1年間で約130万人が死亡しているが、そのうち在宅死は1割強。つまり、自宅で天寿を全うできる者は圧倒的少数である。今後、大都市部では急速な後期高齢者の増加に伴って死亡者の急増が見込まれているが、果たして、看取りの場所をどうするかについて、具体的な目途は立っていない。
本書は、看取りの現場の取材を続けている写真家が、看取りや死は冷たい終末ではなく、次代への「いのちのバトンリレー」だとして、あたたかな看取りの実際を、写真と平易な文章で綴った写真絵本の第3弾である。
これまでのシリーズでは、農村地帯や震災地域での看取りが対象であったが、今回は大都市東京のホームホスピスを舞台に、これまで何のつながりもなかった人々が「もう一つの家」で出会い、最期まで生ききる「とも暮らし」の世界を描いている。
ホームホスピス――看取りの一つの選択肢――
本書の舞台は、ホームホスピス、楪(ゆずりは)。病や障害のために自宅での生活が難しくなった方が、最期まで暮らせる終のすみかである。「ホーム」というだけあって、施設でも病院でもない。人生の最終幕に、家族以外の人々と出会い、人とのつながりの中で看取られていく、「とも暮らし」の場だ。
このホームホスピス、2004年に宮崎市で産声を上げた「かあさんの家」が先駆けであり、現在では、全国25か所に広がっている。
東京都小平市にある楪は、主婦だった嶋崎叔子(しまざきよしこ)さんが、母を病院のホスピスで看取った経験と遺族会の活動をきっかけに立ち上げた。住宅地のマンションの1階を改装し、最大5人が入居できるようにした。ヘルパーさんが24時間365日常駐し、訪問診療や訪問看護が受けられる。そして、入居者の家族や遺族、様々なボランティアの方々が頻繁に顔を出し、活動に参加するのが特色である。
入居者は、それぞれのリズムで自由に生活し、家族も好きなときに好きなだけ会いに来られる。入居者同士が親しくなるのはもちろん、家族同士もひざ突き合わせ、喜びや悲しみを共有していく。本書からは、家族の枠を超えたつながりの豊かさ、そして、にぎやかであたたかい雰囲気が伝わってくる。著者はこの楪を「もうひとつの家」と呼ぶ。
楪は、新しい葉が出たら、ゆずるように老いた葉が落ちて、いのちをつないでいく。いのちのバトンをつなぐ、このホームホスピスは、この楪の木にちなんで名付けられた。
「ここではひとりじゃないから、楽しい」
90歳近くまで生きてくると、自分をよく知る連れ合いや兄弟姉妹は次第に亡くなってしまい、孤独感が募ってくる。加えて、病を得ると、生きる意欲も低下し、1日も早いお迎えを望むようになるという。
本書に登場する喜代子さんは、がんの治療を受けていた病院では食欲がなかったが、楪に来て、みんなで食卓を囲むなかで、食べる量が増えていった。
先に入居していた清子さん(脳梗塞で半身麻痺)との出会いも大きかった。最初は共に意識し合ってギクシャクしていた二人が、いたわり合っていく姿は心をうたれる。
「洗面所を先に使わせて」とか「職員さんをひとりじめしないで」とか、たわいのないことでぶつかっていたのが、ともに暮らす日々を重ねる中で、関係が変わっていった。一緒に食事をしたり、お茶を飲みながら、戦闘機からの銃弾を逃げまどった戦争の話から、胸をこがした恋愛の話まで、昔話に時間を忘れたという。
清子さん曰く、「喜代子さんが楪に来てくれてうれしいの。幸せだったことや、苦労したことをいろいろ話し合えたから。あたし、ここに来れてよかった」。「あたしもよ」とは喜代子さん。
しかし、がんの進行により、喜代子さんの体調は下り坂となり、最期の時を迎える。
喜代子さんが清子さん、家族やスタッフに看取られながら旅立っていく、その時間をカメラが静かに追う。
ゆったりと静かな別れがそこにある。
「ありがとう。またね、また会いましょうね」
楪では、人生の最終盤で、新たな出会いがある。
もう一つの家――入居者と家族やスタッフ等の手によって育てられる場所――
「自宅で天寿を全うする」とは一つの理想であるが、現実はそうたやすくはない。介護者となる家族自身が高齢である、仕事や家事があるなど様々な事情から、支えきれなってしまう。しかし、「もう一つの家」、ホームホスピスでは、本人も、そして家族も、最期まで全うできる。
清子さんは、娘の空美さん家族と一緒に暮らし介護を受けていたが、家族の介護が限界となり、「いっしょにいたいけど、もう無理」という状況となって、楪にやってきた。
「ここにきたときは、家を追い出されたように感じたわ。知らない人といっしょに暮らすなんて、いきなり、いわれても・・・」
「はじめは、娘たちと口げんかもしょっちゅう」
「あたしのパンケーキがくずれていただけで、職員さんに文句をいっちゃった」
「胸の奥でね、言葉にできないいろんな気持ちが、ぐるぐるまわっていたような・・・」
しかし、楪で、寄り添う職員がいて、喜代子さんをはじめ入居者の友達もできる中で、次第に情がわいてきたという。
「戦火をくぐりぬけて、今日まで生きた者どうし。いっしょにすごすのも、そう悪くない」
特に、喜代子さんという友達ができたことは清子さんを変えた。
「今じゃ、娘にいえないことまで、話しちゃう」
二人が夢中になって語り合っている写真が幾度も出てくる。
楪での1年半は、娘の空美さんにとっても、支えを得られ、入居者の家族同士の交流も深まり、「夢のような時間」だったという。清子さんが息を引き取る際には、添い寝をしながら看取ることができた。自宅では介護しきれなかったけど、ここで母は望むような時間をすごせたそうだ。
「母とすごした最後の日々は、夢のような時間でした」
「楪で、母の尊厳と自律を最後まで皆さんが守ってくれた。おかげで、亡くなってもなお、不思議な満足感、幸福感に包まれている」
楪は、家族の心身の負担を軽くしながら、同時に、家族にしかできない寄り添いを促している。他の入居者や家族ともひざを突き合わせ、互いの親を一緒に見送る。遺族になっても、そのゆるやかな大家族の関係が続く。
開設者の嶋崎さん曰く、「楪は、みなさんの手によって、育てられている」
「死」という、ちょっと考えたくないけれど、避けて通ることができない現実を、このホームホスピスなら、去りゆく者も見送る者も、しっかりと受け止めて、バトンをつないでゆける、そんな気がした。こうした思いを受け継ぐ人々が増えていってほしいと思った。
JOJO(厚生労働省)