温故知新 「法隆寺の鬼」から学ぶ仕事への姿勢

   ■「木に学べ―法隆寺・薬師寺の美」(西岡常一著、小学館文庫)


   著書である西岡常一氏(故人)は、「法隆寺の鬼」と呼ばれた伝説的な宮大工だ。生前、とある雑誌がインタビューを連載したところ好評を博し、一冊にまとめられたのが本書である。

   法隆寺五重塔は、巷間、世界最古の木造建築物と言われている。千年以上の維持を可能とした技術は何か。西岡棟梁は飛鳥時代の工人の工夫を歯切れよく語ってくれる。

「木に学べ―法隆寺・薬師寺の美」(西岡常一著、小学館文庫)
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古代人の視点から学者と論争

   棟梁曰く、「樹齢千年の木は堂塔として千年はもつと言われてる...(中略)...しかしヒノキならみな千年もつというわけやない。木を見る目がなきゃいかんわけや。木を殺さず、木のクセや性質をいかして、それを組み合わせて初めて長生きするんです」。

   そして棟梁は、法隆寺を案内しつつ、金堂の軒の深さは4メートルあるが、中国の軒は浅いと指摘して、こう語る。「大陸からの技術を鵜呑みにせんと、雨が多く、湿気の多い日本の風土に合わせて、こういう軒の深い構造を考えたんですな」。

   こうした小さな工夫が次々と丁寧に教示されるあたり、本書は飛鳥建築ガイドブックとも言える。本書片手に法隆寺に赴けば妙味ある観光となること請け合いである。

   興味深いのは第六章だ。「棟梁の言い分」なるタイトルのもと、学者をなで斬りにする。法輪寺三重塔の復元に際し、鉄骨補強を主張した学者に言い放つ言葉は自信にあふれている。

「鉄というても、昔の飛鳥のときのように蹈鞴を踏んで、砂鉄から作った和鉄なら千年でも大丈夫だけれども、溶鉱炉から積み出したような鉄はあかん...(中略)...今の鉄はどうかというと、五寸釘の頭など十年もたつとなくなってしまう」
「われわれの伝統が、千二百~千三百年来の法隆寺を支えてきたんや。そうした工法こそ信用するが、今の学者たちの学問は信用しません」
「大工の言うとおりにすれば、それでいいんや。飛鳥建築でも、白鳳建築でも、天平の建築でも学者がしたのと違う。みんな大工が、達人がしたんや。我々は達人ではないけれども、達人の伝統ふまえてやっているのだから間違いないのや。いらん知恵出して、ヘンなことしたら、かえってヒノキの命を弱めるのだから、やめてくれなはれ」

   実務に携わらない人間が、生半可な学問を振りかざし、無責任に介入することへの反発は評者も一部共有するが、よくぞここまで言い切るものよ。まさに鬼の鬼たる所以である。

日光東照宮さえ、醜悪な建物

   飛鳥の大工は、一体、どうやって現代の学者も敵わないほどの技量を身に着けたのか。戦時中に大陸を歩いた棟梁の見立てでは、法隆寺は中国の建築とは異なるという。渡来した技術でないならば、この列島に住まう人々が永い年月を木と共に過ごして会得した技がベースであろう。

   ここで評者は三内丸山遺跡で見た巨木の構造物を想起する。往時は鬱蒼たる照葉樹林が列島を覆っていたのだろう。縄文から連綿と続く巨木文化があったとすれば、そこに大陸からの新たな技術が吹き込まれ、この列島に独自の建築様式をもたらしたと想像される。巨木が切り尽くされ、その性質を知り尽くした文化もまた消え去り、後に残ったのはその残滓と外来建築技術の模倣、となったのかも知れない。

   棟梁の言葉に耳を傾けていくと、そんな空想も芽生える。そうした視点から伊勢神宮や出雲大社と法隆寺を比較してみるのも一興かも知れない。

   だが、千年単位の樹齢のヒノキの巨木は、もはや日本には存在しない。ために堂塔の資材を求め台湾の山に入った棟梁の心中はいかなるものであったろうか。

   棟梁の批判の矛先は、学者のみならず政治、役人や芸術家にまで及ぶが、腑に落ちる話が多い。現代社会が見失った何か極めて大切なものの存在を、棟梁は木を活かすという一事を以て語り切るからだろうか。古代の素晴らしい技術が失われ、時代が下るに従い寸法や規格ばかりが幅を利かせ、それぞれの木の個性を生かさない建築が横行していく様を嘆く棟梁からすれば、日光東照宮さえ、醜悪な建物となる。江戸の職人も形無しだ。

    奇をてらった現代建築が彼の目にどう映っていたか。推して知るべし。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

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