音楽の都ウィーンで挫折を味わったショパンが
パリに携えていった物語「スケルツォ第1番」

   アメリカが大統領令で特定の国の人たちの入国を一時禁止し、イギリスがEUから脱退手続きを進める現在の状態は、数年前の人に、「数年後はこうだよ」と説明しても信じられないかもしれません。それほど、現代も政治状況はめまぐるしく、かつドラマチックに推移するわけですが、200年ほど前のヨーロッパは、さらに大変な状況でした。現代でも、大国に挟まれた小国、というのは苦労しますが、今日の主人公、ショパンの祖国ポーランドは、ロシアとドイツ、オーストリアという当時の大国に挟まれて、大変な歴史を経験することになります。

    今日は、若きショパンが書いた、「スケルツォ第1番」を取り上げましょう。

ショパンの肖像
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1年以上滞在も成果はさっぱり

   ワルシャワ郊外に、フランス移民の子供として1810年3月1日に生まれたショパンは、恵まれた少年時代を過ごします。幼いころから音楽の才能を発揮したショパンはワルシャワ音楽院に進み、校長先生自らの教えを受けて、最優秀で、16歳で音楽院を卒業しました。周囲が、彼の才能は欧州の田舎であるポーランドで埋もれさせるには惜しい、と考え、外国に活躍の舞台を求めるよう、彼に勧めます。そこには、ポーランドが事実上ロシアの支配下にあり、日々圧迫を受けており、それに反発する人々が反乱を起こし、鎮圧され、政情が不安定になる可能性を人々が感じていた、という理由も入っていたようです。

   若きショパンは今も当時も「音楽の都」であった帝都ウィーンを目指します。以前、シューマンの回でも取り上げましたが、ウィーンは現在の「小国」オーストリアの首都ではなく、ハプスブルグ帝国の帝都で、音楽的にも、ビジネス的にも、音楽家にとっては憧れの地だったのです。ショパンも自分の名を国際的に有名にするために、勇躍乗り込んだわけですが・・・結論から言えば、1年以上滞在したにも関わらず、成果はさっぱりでした。

   当時のウィーンは、ナポレオン没落後の「ウィーン体制」の時代で、当局の締め付けが厳しく、シュトラウスに代表されるような軽めの「ウィンナ・ワルツ」のような音楽ばかりが流行し、真剣な芸術が受け入れられにくい状況だったということと、ポーランドという看板を背負ってウィーンに出てきたショパンに反感があったのです。現在では考えられないことですが、当時のオーストリアの人にとって、ポーランドは、「大国ロシアに盾突く生意気な小国」という位置づけで、ハプスブルグ帝国としては、「大国」ロシアに圧倒的に親近感を覚えていたのです。帝国内の反抗する小国に比べられてしまったのかもしれません。ショパンは、ウィーンでは「政治的に反感を買ってしまった」のです。

祖国への激烈な思いをもちつつも帰れない胸の内

   ウィーンでは自分の作り出す音楽が受け入れられないと感じたショパンは、次なる都市、パリを目指します。祖国ポーランドが大国によって分割されたとき、たくさんの貴族が亡命し、フランスに居住していたからでした。ショパン当時のワルシャワを抑えていたロシアの傀儡政府はそのことを当然知っているので、ショパンは、パリ経由ロンドン行きの旅券を申請してパリに向かうことになります。

   ウィーンで書き始められ、パリで出版されたショパンの作品が、「スケルツォ 第1番」になります。もともとイタリア語で冗談、諧謔、を意味します。ベートーヴェンが、それまで交響曲の第3楽章に使われていた3拍子のゆったりした舞曲、メヌエットをエキサイティングなものにするために、「スケルツォ」という形式を確立しますが、ショパンは、その名前を流用したものの、ベートーヴェンの作品とも全く異なる曲想を編み出します。もちろん、ショパンのスケルツォは管弦楽曲ではなく、すべてピアノ独奏曲です。

   スケルツォ第1番は、1831年ウィーンで書き始められたことがわかっていますが、彼は、ウィーンに失望し、パリに向かう途上のドレスデンで、祖国で、ロシア傀儡政府に対して立ち上がった反乱軍が鎮圧され、弾圧されたニュースを耳にします。祖国への激烈な思いを持ちながら、彼はパリに到着し、ウィーンとはまた違った先進都市の魅力を味わいながら、一方で、祖国に帰れない胸の内を吐露したかのような激しい「スケルツォ 第1番」を完成させたのです。

   ベートーヴェンは緩い速度のメヌエットを刷新するために、「スケルツォ」を交響曲に投入しましたが、ショパンは一方でウィーンで流行していた同じく3拍子の「ワルツ」も書きながら、一方で、大変激しい3拍子の「スケルツォ」にも情熱を注ぎこんだのです。

本田聖嗣

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