霞が関から読み解く漫画版ナウシカ:ポリフォニックな喧噪を愉しむ

   ■『風の谷のナウシカ』(漫画版)(宮崎駿著、徳間書店)


   「お前は亡ぼす予定の者たちをあくまであざむくつもりか!! お前が知と技をいくらかかえていても、世界をとりかえる朝には、結局ドレイの手がいるからか。私たちの身体が人工で作り変えられていても、私たちの生命は私たちのものだ。生命は生命の力で生きている。...生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう。だが、お前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。...私たちはお前を必要としない」

   本作の劇場版は言わずと知れた国民的作品である。漫画版についても少なからぬ批評家が論じてきた。他方、この『霞が関...』の読者にはこの漫画版を手に取っていない方がおられるだろうし、この折に『霞が関...』らしい視点からその核心について論じておくのも意味のないことではないだろう。

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滅ぼされるべき存在

   引用は、ナウシカがシュワの墓所の主に向けた憤怒の言葉である。劇場版は、ナウシカが身を投げ出すことで人間と環境との調和が回復するという幸せな結末を用意しているが、漫画版で彼女が対峙するのは、焼き尽くされる以前の文明の遺したシステムである。瘴気をまき散らす腐海は、有毒物質を浄化するために旧世界の人類が作ったシステムだったこと、ナウシカたち人間そのものも、汚染された大地で生きていけるよう作り替えられた存在だったことが明らかにされる。やがて世界が浄化され、美しく豊かな旧世界が復興するが、ナウシカたちは浄化された世界では生きていくことができないのだ。シュワの墓所に坐す主は、ナウシカに計画を受け入れ、未来の人類のために滅びるよう求める。

   冷静に考えれば、主の要求はもっともなものである。地球環境が浄化され、美しく豊かな文明生活を取り戻すことができる。汚染されたままの地上の生活では、人の命は短く、僅かな土地を求め争いが絶えない。未来の人間を含めた人類の幸福を最大化するためには、「世界をとりかえる」べきなのだ。ところが、ナウシカは主の求めに怒りでもってこたえる。将来復活すべき人類、動植物、芸術・文化の卵までも破壊し尽すことを選ぶのである。たしかにナウシカにしてみれば、従容と滅びを受け入れることは自己利益に反することではある。ただ、未来の人間に比べ現在の自己利益を優遇すべき道徳的根拠などというものはないはずである。

   『風の谷のナウシカ』では、巨神兵なる命と意識を持った人造の大量破壊兵器が登場する。巨神兵を制御するため、ナウシカは自らを彼の母親だと欺き、「私のいいつけを守って、立派な人になれますか」と語りかける。今わの際に、巨神兵は「ぼく立派な人になれたか心配だ」と呟いて斃れる。巨神兵は生まれてくるべきではなかった生命である。腐海のなかから生まれ、世界再生の希望を打ち砕くナウシカもまた、生まれてくるべきではなかった生命であり、主によって欺かれ、滅ぼされるべき存在であった。

統治者とシュワの墓所の主

   ナウシカが直面した未来の人間の運命を左右する問題には独特のむつかしさがある。未来の人間は現在の人間による不正の結果を一方的に受ける取ることしかできないことである。この事情を考慮すると、現在と未来の人間との間の公平性(むつかしい言葉で「世代間倫理」という)を担保するためには、主のようなシステムの支えを必要とするのである。ナウシカから主をみれば、無慈悲そのものと映るとしても、主は主でその立場を譲ることができない。譲歩は道徳的不正でさえある。

   実社会における統治者(霞が関の住人は「統治者」というほど高貴な存在ではないと思うけれども)はともすれば、シュワの墓所の主の立場に立たされることがある。もちろん、実社会においてまず問題になるのは、「その政策は本当により大きな善をもたらすものなのか」ということであり、統治者には、社会の実態を精査し、より大きな善に向かって近づく努力の余地が常にある。しかしながら、その努力を無限に積み重ねても残る問題がある。導出された最善の政策があるとしても、その最善の実現のため必須であるとしても、個の幸福を犠牲にすることができるかという問題である。

   同一世代内のことであれば、多勢を頼んで政策を執行することが可能ではあるだろう。ところが、未来のためにはなっても現在の人間には不利益をもたらす政策となると、最早多勢を頼むことすらできず、最大多数の最大幸福に基づく政策は道徳上の正当性ばかりか、現実の執行可能性までも失うに至る。シュワの墓所の主は、現在の人間のなかから代表者を選び、その代表者に説いて協力を取り付けようとした。その代表者が人類の未来のために仲間を犠牲に供してくれる可能性に賭けたのである。涙ぐましいほどの知恵を絞ったのだ。

   「私たちの生命は私たちのものだ」。

   ナウシカ(代表者)は、シュワの墓所の主の賭けを一言のもとに却下してしまう。

ナウシカからの反撃(カント的議論、価値観に基づく議論)

   ここまでシュワの墓所の主の立場を擁護し、ナウシカの選択を責める論を展開してきた。しかしながら、改めてナウシカの事例を見直すと、これが話の半面であることがわかる。

   シュワの墓所の主を遺した過去の人間と、ナウシカの世代の関係をみれば、過去の人間が主というシステムを介してナウシカの世代を道具と化し、その運命を支配しようとしていることが理解できる。「自身及び他者の人格にある人間性を単に手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」。カントの論じた通り、人間を道具として扱ってはならないのである。いかにナウシカが高潔な人物であったとしても、道具扱いまでされては、自分たちを犠牲にして未来の人間を救うほどの度量を持てというのは酷であろう。

   ナウシカの立場を擁護する議論をさらに補強することができる。この議論を、評者はかつて「いまだ生まれざる者の声を聞くことの意義 『仮想将来世代』が可視化する未来の人々とは...」(16年4月)で取り上げたことがある。

   人間そのもののあり方を左右する政策の採否を問う場合、価値観の問題を切り離すのは困難である。たとえば、ゲノム編集により人体の機能の改善(例:気分障害の因子の排除、認知能力の向上)が可能になる一方、なんらかの損失を伴う、例えば、詩作の能力を損なう場合、我々は未来の子どもたちにその操作を施すべきだろうか。詩作の喜びを失うことは、現在の我々(の一部)からみれば重大な損失であろう。現在の価値観からみれば、詩作の能力を本源的に失った人間は、人として重大な欠陥を持つのであるから、すくなくとも彼らが子孫を残すことは許されるべきではない。そう論ずる者がいても不思議ではない。

   同様にシュワの墓所の主、さらにその製作者である過去の人間にとって、ナウシカ世代の人間は腐海の環境に適用すべく作り出された人間にすぎず、きたるべき本来の力を持つ文明の復活までのつなぎ役にすぎない。

   それでも、ゲノム編集を受けた未来の人間にしてみれば、詩作の才能の喪失を損失と感ずることさえできないだろう。そのゲノム編集の採否に関し、現在の価値観から否定するのは誤りであり、未来の価値観こそ尊重されるべきではないのか。

   そして、ナウシカも言う。「私たちの生命は私たちのものだ」。

   一見して自明な答えはどこにもない。

   『風の谷のナウシカ』の作品としての美質は、このようなポリフォニック(多声的)な魅力にある。ナウシカ、シュワの墓所の主、(多くは触れることができなかったが)巨神兵など、多様な声が時に対立し、時に共鳴し、全体として壮大な音楽を奏でる。

   ドストエフスキーの作品の特徴を、ポリフォニーという切り口から呈示したのがミハイル・バプチンであった。『風の谷のナウシカ』は、ポリフォニックという意味でドストエフスキーにも通ずる文学的価値を有する漫画作品のひとつである。

経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion

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