同胞の苦難を「全体の奉仕者」たちが放置した、恥ずべき史実
■「苦海浄土」(石牟礼道子著、講談社文庫)
「苦海浄土」(石牟礼道子著、講談社文庫)
「春から夏になれば海の中にもいろいろ花の咲く。(中略)海の水も流れよる。ふじ壺じゃの、いそぎんちゃくじゃの、海松じゃの、水のそろそろとながれてゆく先ざきに、いっぱい花をつけてゆれよるるよ。 (中略)
うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。
(中略)磯の香りのなかでも、春の色濃くなったあをさが、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか。
そんな日なたくさいあをさを、ぱりぱり剥いで、あをさの下についとる牡蠣を剥いで帰って、そのようなだしで、うすい醤油の、熱いおつゆば吸うてごらんよ。都の衆たちにゃとてもわからん栄華ばい。」
繰り返してはならない歴史に、既視感を覚えるやるせなさ
本書のこの美しい描写は、水俣病に罹患した坂上ゆきさんの「回想」である。
豊饒の海が地獄の入口と化し、人々が受けた無間の苦しみ。それを本書は、各種記録を織り交ぜつつ、聞き書きのような体裁で記す。
「回想」とカギ括弧をつけ、「ような」とするには理由がある。メモ起こしではなく、患者の心持ちを感じ取って書かれたからである。よって巻末の解説者・渡辺京二氏は、本書を私小説とする。だがその氏に著者は「だって、あの人(評者注:患者)が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と語る。海と人々が一体であった頃の、人々の深い共鳴のなせる業か。本書がベストセラーとなった昭和40年代に「石牟礼道子巫女説」が出たのも頷ける。
実質的には昭和28年に発生していた水俣病に、最初に危機感を抱いた行政機関は水俣市であった。それでも動いたのは32年になってからという。
市の陳情は、まず厚生省に向かう。だが相手は「てんで、うっちゃわん。きいてくれても、東京弁の鼻声で、あ、そうか、そうか、ちゅうふうで、ききながしじゃった」。陳情は農林省、通産省、文部省はては大蔵省に及ぶが、それも「馴れん田舎者がですね、五つの省にまたがって、廻され」た結果に過ぎなかった。加えて後日「県にいわずに行ったちゅうことで...県が感情的になりました」と、下らぬ縄張り意識まで顔を出す。
同胞の苦難を「全体の奉仕者」たちが放置した、恥ずべき史実がここにある。行政権を発動するべき事案も端緒は些細なことも多いが、決して見逃していないと胸を張れる者が、霞が関や都道府県庁にどれだけいるか。また、たらい回しは今なお散見される。見つければ正すのは無論だが、正しても叱ってもなお、根絶は難しい。
苦難の他者を視る者に問われる人間性
もう一つの既視感に、公害特有の現象がある。地域分断、そして差別だ。
原因不明の病気は当初、伝染病も疑われ、患者は近隣から水すら分け与えられないこともあった。著者は患者家族に「七生まで忘れんばい。水ばもらえんじゃった恨みは」とまで言わしめる。
原因が特定されると今度は、チッソに依存する市経済が患者と家族を疎外する。環境と経済のぶつかり合いが地域を分断する例を、我々はどれだけ見てきたか。被害者へのいわれなき偏見・差別も然り。大人がこれでは子供のいじめがなくなるはずもない。研究者、学生、運動家、マスメディアなどのよそ者が多々、水俣に入ってきたことに著者は警戒感を表し、配慮なき者に反発も見せるが、この軋轢など今はむしろ悪化している印象さえある。
それら「善意」の「遠来の客」を(いささかの皮肉を込めて)ねぎらいつつ、患者と客の埋めがたい溝を著者が抉るとき、客と似た立場の読者は粛然とさせられる。
「身体の自由を失い、押えがたい全身痙攣のためベッドから転がり落ち、発語不能となり、咽喉を絞り唇を動かしても、末期に至るまでついに、人語を以ってその胸中を洩らすことかなわなかった人々が、ま新しい病室の壁を爪でかきむしり、<犬吠えようの>おめき声を発していたそのこころ」を、著者は代弁する。だからである。重ねていう、粛然とさせられるのである。
「あん頃の海の色の、何ちいえばよかろ、思い出しても気色の悪か。ようもあげんした海になるまで、漁に出てゆきよったばい。何かこう、どろっとした海になっとった...。いったい、あん頃、何ば会社は作りおったっですか。どべのゆたゆたしとる海ば、かきわけてゆくと舟もどべで重かりよったです。」
水俣湾は20世紀のうちに県知事の安全宣言が出され、今は普通に海の恵みを口にできる。遅きに失したとはいえ、浄化の努力にだけは、この社会の美点が顕れていると信じたい。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)