おそらく史上最も忙しい作曲家だったボロディン。歳末のあわただしい時期に勇壮な「交響曲第2番勇士」を
クリスマスが過ぎて、日本の街角は急に西洋風の飾りつけから和風の装飾に変化し、お正月準備に入る・・というのがいつもの歳末の風景ですが、どうしてもこの時期は忙しくなります。年末年始を休むために仕事は積み上がり、家庭でも掃除に年賀状書きに飾り付け、そこに忘年会の予定が入ってきて・・・と誰でも師走の後半は走りたくなるあわただしさがありますね。
そんな時期ですから、今日は「史上最も忙しかった作曲家」ボロディンに登場してもらいましょう。
医科大学の教授にまで上り詰めて
アレクサンドル・ボロディンは、1833年、当時まだ帝政ロシアの帝都であったサンクト・ペテルブルクにグルジア貴族の血を引き誕生します。幼少時から、勉強のみならず、音楽などの恵まれた教育も与えられて育ったボロディンは、サンクト・ペテルブルク医科大学に進み、卒業後は陸軍病院に勤務します。まだお世辞にも先進国とは言えないロシアは、当時の日本のように、軍隊が一つのエリート養成機関だったようです。そののち、西欧に会議などで出張してさらに興味を引かれたのでしょうか、26歳の時にはドイツのハイデルベルク大学に留学し、元素の周期律表を作成したロシア出身のドミトリ・メンデレーエフなどに師事して、化学の道に進むことを決心します。帰国後は母校サンクト・ペテルブルク医科大学の教授にまで上り詰めます。
当時のロシアでは音楽学校もなく、プロの音楽家、というのが社会的・職業的に成り立たなかった、というのはこのコラムでも書いてきたとおりですが、ボロディンは、化学の道で抜きんでた成績・業績を残していたので、もちろん、音楽家になる意志は生涯ありませんでした。しかし、「力強き5人組」といわれた作曲家仲間のムソルグスキーや、バラキレフに熱心に勧誘されます。彼らから、シューマンなどの西欧音楽を教わり、ボロディンは音楽への断ち難い興味をそそられ、反対に彼らも、ボロディンの抜きんでた音楽的才能を「新しいロシア音楽」の成立のために活かしたい、と考えたのです。結局、30歳になるころ、バラキレフから、生涯で初めての「作曲法」を習うことになります。
後進国ロシアの真の価値に気がつく
作曲を習い始めてすぐに、5年かけて「交響曲 第1番」を作曲した後、すぐに「交響曲第2番」の作曲に取り掛かります。既に第1番の時点から習作というより立派な完成度を見せていたボロディンの交響曲ですが、第2番は、より「ロシア的」色彩が強くなります。
実は、彼は音楽家仲間である「力強き5人組」と接することによって得たものは、作曲技術だけではありませんでした。「ロシア」そのものだったのです。
つまり、彼の「専攻」である有機化学の分野を極めれば極めるほど、彼は西ヨーロッパの優位性・・言い換えればロシアの後進性を認めねばなりませんでした。音楽も、ドイツなどでドイツ音楽に接していたため、同じく「西欧派」と批判されたチャイコフスキーとは別のルートで「西欧贔屓」になっており、「交響曲 第1番」では、明らかにシューマンの影響などが見て取れます。音楽という文化以上に、国力が反映される科学研究の現場にいた彼なら、当然の結論、というかコンプレックスだったはずです。
しかし、ロシアの伝統文化や伝統音楽の中に価値を見出し、「新しいロシア音楽」を作ろうともがいた「ロシア5人組」のメンバーと交流して、ボロディンはロシアの真の価値に気づくようになります。そして、1877年に完成された「交響曲 第2番」には、ロシア的な色彩が色濃く反映されたのです。仲間のムソルグスキーによって「スラヴの英雄の交響曲」というタイトルが提案されたこの曲は、ボロディンによって「交響曲 第2番 勇士」として発表されます。初演時の評判は芳しくなかったものの、その後少し改作し、5人組仲間のリムスキー=コルサコフの指揮によってサンクト・ペテルブルクで演奏されると評判となり、また海外でも、かのフランツ・リストがドイツなどで紹介し、ボロディンの名がロシア国外で作曲家の名前として初めて認識されるようになります。
勇壮な第1楽章、どこか東洋的な旋律がゆったりと美しい第3楽章、師走にぴったりな、疾走する第4楽章、自らを「日曜作曲家」と呼んだボロディンの隠れた名作をあわただしい師走ですが、ぜひ、聴いてみてください。
この後、ボロディンは代表作、オペラ「イーゴリ公」に取り掛かりますが、本業でもますます忙しくなって、その作曲作業は困難を極めますが、それはまた別の機会のお話としましょう。どうぞよいお年をお迎えください。
本田聖嗣