認知症をめぐる問題の多くは「人災」である
■「私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活」(樋口直美、ブックマン社)
本書は、レビー小体型認知症と診断された著者が、病気に気づき、カミングアウトし、講演に踏み出すまでの2年4か月の間に書かれた日記。患者本人による、徹底的な自己観察と思索の記録である(2015年の日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞)。
著者は、30代後半から幻視があり、41歳でうつ病と誤診され、6年間にわたり抗精神病薬を服用し、重い副作用に悩まされ続けた。50歳のときに幻視を自覚し、検査を受けたが診断されず、翌年、その症状からようやくレビー小体型認知症と診断され、治療を開始した。現在は、自律神経障害以外の症状はほぼ消え、認知機能は正常に回復しているという。
「私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活」(樋口直美、ブックマン社)
レビー小体型認知症はアルツハイマー病と異なり、知名度は低いが、実際は正しく診断されていないケースが多く、認知症の5人に1人が該当するともいわれる。うつ病やパーキンソン病とも症状が似ていることから誤診も多いとされ、「いまを生きる」「レナードの朝」などで知られるロビン・ウィリアムズもレビー小体型認知症であったという。
加えて、抗精神病薬への感受性が高いことから、誤った服用による副作用も大きく、著者と同様に、誤診や処方薬で苦しむ患者も少なくないとされる。
著者曰く、不適切な医療とアウェイな環境が認知症の人を追い詰めているとし、認知症をめぐる今の問題の多くは、病気そのものが原因ではなく、人災のようだという。
「本人」しかわからないものだからこそ発信すると覚悟を決め、認知症になっても笑顔で歩き続けることのできる道をつくる工事の末端に加わるとして、活動を続けている。
本当に認知症なのか?様々な脳の病気を「認知症」と一括りする危険
「認知症=アルツハイマー病」という印象が強いゆえに、「認知症」という言葉からは、物忘れの病、回復不能の病気という連想が湧く。
著者は、医師を含めて多くの人が認知症について、次のようなイメージを抱いているという。
・脳細胞が死滅し続ける。進行性で回復はなく、右肩下がりに能力が低下し続けていく
・知性も人格も失う。理解不能の言動で周囲を困らせる
・「自分が自分でなくなる」。一番なりたくない恐怖の病気
しかし、レビー小体型認知症では、脳は特に萎縮しないし、著者自身は治療を受けて以降、自律神経障害を除く多くの症状が消え、認知機能テストは満点に回復しているという。
こうした誤解が生じる原因は、医療現場を含めて、レビー小体型認知症への理解度が低いことにあると指摘する。同じ認知症と分類されていても、レビー小体型認知症とアルツハイマー病では、症状が全く違う。しかし、「レビー」は医師の中でも知られていないことが多く、加えて、物忘れが目立たないために発見が遅れ、なかなか正確な診断に結びつかないのだそうだ。
逆に、うつ病と診断され、抗うつ剤や抗不安薬を処方され、結果的に、血圧が下がったり、焦燥感に襲われたような発作などの副作用に苦しむことになるという。特に「レビー」は薬に過敏で副作用が出やすい特徴があり、副作用の負のスパイラルに陥りやすいとのことだ。
本人しかわからないリアルを語る 1人称で語る病
本書は、日記をそのまま載せてあり、レビー小体型認知症の症状の実際と著者の切羽詰まった心や揺れ動く思いがストレートに伝わってくる。
「今日も仕事でミス。一度も忘れたことのない手順がわからなくなった。こういう瞬間が、本当に恐ろしい。何もかもが、崩れ落ちていく気がする」
「私はあと何年正気を保っていられますか? 私の理性は、いつまで病気に勝てますか?」
中には、同年代の評者も時々実感する言葉もある。
「『きんぴらごぼう』と『かりんとう』という言葉が、各10秒位出なかった。初めて。どんなものかはよくわかっていて、言葉がでない。『ごぼうをささがきにして炒めたもので・・・』と考えていってやっと出た。ショックをうける」
幻視に苦しんでいた時期には、次のような辛い言葉が並ぶ。
「滅んでいく。私は、滅んでいく。そう常に思っている。それは、さびしいものだ。進行することが怖い。体調不良も一匹の虫も計算を間違うことも曜日を間違うことも、それ自体は小さなことなのに、私の根拠なき信念を根底から揺さぶる」
「がんになると体のどこが痛んでも『再発か!?』と怯えるという。認知症は、あらゆるミス、ど忘れ、一匹の虫の幻視でも『進行か!?』と怯える。再発は、死と隣り合わせ。認知症の進行は、同じ死でも『社会的死』か。家族を苦しめること、人格が崩壊したような言動をすることは、死ぬよりも辛い」
一人称で語られる言葉には実感がこもっており、説得力がある。と同時に、同じ病気について語りながらも、医師達との間には無限に隔てられた壁がある。
「(レビーの研究をする医師たちの学会で)研究発表を聞きながら、私は、とても不思議な気がしていた。医師達は、三人称で話す。人間というより患者、患者というより症例を語る。私は、それを一人称のこととして聞く。語られる症状は、私が日々味わっている症状で、そこには、痛みがあり、苦しみがあり、嘆きがあり、闘いがある。そこには、色があり、ぬくもりがあり、匂いがあり、弾力がある。同じ症状について語られているのに、それは、まるで別の次元のものに感じる」
自らの体験を伝えることで人生を取り戻す-私は堂々と生きていく
著者は、自分の病を夫に話し、子ども達に伝え、友人達にも語るようになる。そして、迷った末に、多くの人々にレビー小体型認知症の実際を知ってもらおうと自らの体験を公表する。
「友人に病名を話した。そのままに受け入れてくれた。救われた。なぜもっと早く話さなかったんだろうと思った。怖かったんだと気づいた。何気ない一言で傷つくこと。関係が変わってしまうこと。この病気であることを自分の中で消化するにも時間がかかっていた」
「ずっと考えているのは、病気の公表。実名で顔を出して発言しなければ効果はないと分かっていて、迷っている。そのことで傷つく身内が出てはいけないと思う。私自身、怖れている。世間に公表して、いったいどんな言葉を投げつけられるのかと不安になっている。どうすればいいのかわからない」
「今、ごく親しい友人以外にも病気のことを伝え始めている。隠している限り、病気は巨大な怪物だが、一人に話すたびに小さくなり、みんなが知れば、それは、ネズミみたいなものになるような気がする」
「障害や傷を堂々と見せる人を美しいと思う。障害自体が障害なのではないと気付かされる。それを隠そうとする気持ち、そうさせる周囲の誤った理解や偏見が、障害だ。どんな病気だって、脳の病気だって同じだろう。(中略)実名を出すと決めた。決めた。扉を開くんだ」
著者は、「本当に必要な答えは、当事者や家族が持っている」と語る。
「病と共に生きる毎日の中で、どんなことにどんな風に困り、それをどうしたら乗り越えていけるのかは、体験している本人や家族にしかわからない。(中略)私は、臆することなく発言していけばいいのだと思う。同じ立場にある人達に希望を与えることができるはずだ」
今、著者は、健康と病の語りサイト(ディペックス・ジャパン運営)において、レビー小体型認知症について語るなど、同じ病になった人、そしてこれからなるであろう人のために、積極的に発信を続けている。
JOJO(厚生労働省)