「きよしこの夜」の奇跡と軌跡
12月に入り、町はすっかりクリスマス気分・・イルミネーションが灯り、あちこちにクリスマスツリーか飾られ、サンタクロースが現れる・・日本ならではの受容のしかたで、クリスマスはすっかり根付いています。
今日は、そんなクリスマスの定番の歌、日本では「きよしこの夜」と呼ばれるキャロルについてたどってみたいと思います。
チロル地方の1寒村からあっという間に世界中に
日本では、日本語で「きよしこの夜」、ときどき英語で「Silent Night」とも歌われるので、英語圏の歌だと思っていらっしゃる方もいるようですが、この歌のオリジナルはドイツ語です。しかもドイツではなく、ドイツ語圏でもオーストリアはチロル地方の小さな町でこの歌は作られました。モーツアルトの生地でもあるザルツブルグに生まれたトーマス・モーアという人物が発案者です。彼は貧しい出身でしたが音楽の才能を見いだされ、教会の聖歌隊などで歌って成長し、教会の助祭となりました。その彼が若くして赴任した地が、オーベンドルフというチロル地方の寒村だったのです。
1818年のクリスマスイブの晩、クリスマスのミサに備えて、村人たちと歌う素朴なキャロルをつくろうと書き留めておいた詩に、いざメロディーをつけようという段になってハプニングが起こったのです。教会にある唯一の楽器、パイプオルガンの空気を送る「ふいご」をネズミがかじったため、使用不能になってしまったのです。この時期、雪が深いチロルに簡単に修理は呼べません。それを知らせに来た教会のオルガニスト、フランツ・グルーバーに、「君はギターが弾けるだろう、なんとか簡単なメロディーとハーモニーでいいので、この詩に曲をつけてくれないだろうか」とモーアは依頼して、この曲は誕生し、その晩、モーアとグルーバーそして、2人の女性を加えて、四重唱として、世界初演されました。さらに、オルガン修理にやって来た近郊の村の職人が曲に感激して持ち帰り、瞬く間に、その村でも人気の曲となり、さらにさらに、その村に暮らしていた手袋職人の一家が、ライプツィヒやベルリンといった北ドイツに行商に行くときに、販促として子供たちにこのクリスマスキャロルを街頭で歌わせたため、プロイセンやザクセンでも評判となり、ついには国王の前で披露されることになり、さらには海を越えて世界中に広がっていった・・というまことに「奇跡」のような話が伝えられています。
ラテン語でなくドイツ語で歌ったのがよかった
史実ですから、ある程度本当なのですが、オーストリアの一寒村に過ぎない教会で、ハプニング的に作られたキャロルが、全世界のクリスマスナンバーになるには、あまりにも出来すぎている話のようにも思えます。
背景には、クラシック音楽の母体となった教会音楽・・これらは、ラテン語で歌われていた、という背景がまずあります。現在でもミサ曲やカンタータでラテン語のものは多くありますが、地元の言葉であるドイツ語を使った、というのが「きよしこの夜」の成功要素の一つだったようです。難解であるが、有難そうな教会音楽ではなく、非常にシンプルで、わかりやすくて、そしてメロディーが綺麗・・・人々はクリスマスにそういった音楽を求めていたのです。
その後、近郊の村まで広がった「きよしこの夜」は、これらオーストリアの片田舎の人々に、「この歌を広めよう」という情熱が芽生えさせ、上記の職人の子供たちのみならず、大人たちも交じって、「きよしこの夜アンサンブル」的なものがあちこちで組織され、国を出て、まずはドイツ語圏、そして、遠くアメリカまで、この歌を歌って知らしめた多くの人たちの尽力があったのです。
音楽は人の心を動かす、とよく言いますが、「きよしこの夜」の世界への広がりを改めて検証してみると、本当に「音楽に動かされた人々」の姿が見えるような気がします。
今年も、世界中のクリスマスで、この歌が聴かれることでしょう。
そして、今年も、この曲に動かされる我々がいるはずです。
本田聖嗣