雪ふる日の情景を一幅の絵のように
リストの超絶技巧、「雪かき」
先週、首都圏は、54年ぶりに11月中に雪が降るという珍しいことがありました。この時期の昼の平均気温は例年13度ぐらいなので、雪になる可能性はほとんどなく、「年内は雪が降らない」というのが常識だったのですが、東北あたりまで来襲する寒気が例外的に首都圏まで南下し、そこに南海を通過する低気圧が重なって、異例の初雪となったようです。
今日の1曲は、ロマン派のフランツ・リストの作品、「雪かき」を取り上げましょう。
弱冠13歳、ピアノメーカーの売り込み演奏が各地で大人気に
ショパンやシューマンとほぼ同世代、正確には1歳年下のハンガリー出身の彼は、先輩以上に「ピアニスト」としての活動が重要でした。ショパンもシューマンもピアノを熱心に勉強し、演奏家としても活動し、ピアノのための重要な作品を残しましたが、リストは彼らとは比べ物にならないぐらい本格的なピアニストとして、まず、世に出ました。オーストリア帝国の影響下にあっても、音楽に関してはお世辞にも先進国とは言えない辺境の国、ハンガリー出身だった、ということも一つの理由かもしれません。欧州の中心で名前を売る必要があったのです。
彼はウィーンで学んだあと、一家でパリに移住しました。パリ音楽院受験が目的だったのです。外国人に入学を許可しないという理由で、入学は果たせなかったのですが、同じパリの地で、ピアノメーカーと契約し、ピアノを欧州各地に売り込むために、各地で演奏会を開く、というグランドツアーに出ることになります。ほぼ同時に自分の作曲作品も発表するのですが、驚くなかれ、この時のリストは、まだ若干13歳だったのです!
当時、数々の改良を経て、やっと現在の形に近い・・・つまり「完成形」といってもよい・・・楽器になりつつあったピアノは、演奏会の花形で、パリでも複数のメーカーが最新製品を送り出しつつその優秀さを競っていました。社交界の都市としても有名だったパリでは、毎晩のようにピアノを用いた演奏会が開かれ、リストは、現代のアイドルが束になってもかなわないぐらいのすさまじい人気を博します。
結局、36歳でパリを離れドイツのヴァイマールに移住するまで、パリを拠点に、イベリア半島からロシアやトルコまで、広く欧州全域で数多くの演奏会に出演し、各地でもまばゆいばかりのテクニックで聴衆を熱狂の渦に巻き込んだのです。リストは、作曲家である前に、なによりピアニストでした。
15歳で発表した「超絶技巧練習曲集」12番目の曲
そんな彼の事実上の処女作品、それが、「超絶技巧練習曲集」です。第1版の発表時、リストは若干15歳だったということに、驚かされます。オリジナルの題名「すべての長調と短調のための48の練習曲」という題名が示す通り、当初はバッハの「平均律クラヴィーア曲集」のように、長調短調合わせて24のすべての調で練習曲を書くことを計画していたようなのですが、発表されたのは12曲でした。その後、26歳の時に手を加え、「24の練習曲」と題名を変えても相変わらず12曲で、結局41歳の時に「超絶技巧練習曲」と題名をフランス語でつけた第3版を出版し、現在ではこれが定番となっています。
その12番目の曲・・つまり最終曲となってしまった曲が、フランス語で「雪かき」と名付けられた曲です。右手にあらわれ、長く持続する細かい音符のパッセージが、次から次へと降り積もる雪を表しているかのようです。雪の日の朝のように穏やかに始まるのですが、そこはヴィルトオーゾピアニストが「練習曲」と銘打った作品、だんだんと盛り上がりを見せ、中間部では雪の乱舞ともいうべきクライマックスを形作ります。最後はまた静かになり、鐘の音のような和音で終わるのですが、あたかも雪の日の情景を描いた一幅の絵を見るような気分にさせてくれる曲です。
現代のピアニストでも十分に演奏が難しい「超絶技巧練習曲」は、彼のピアノの師の一人、同じく「練習曲」で有名なカール・ツェルニーに献呈されています。
本田聖嗣