ハロウィーンにふさわしい名曲 シューベルト「魔王」は友人たちの熱意によって世に出た名曲
日本にもすっかり、ハロウィーンが定着しましたね。もともと、イギリス・アメリカ系のイベントだったハロウィーンなので、90年代までは日本や私がいたフランスでも「他国のお祭り」という感覚だったハロウィーンですが、遊園地やショッピングセンターなどとのコラボや、大人が大手を振って仮装できる、というイベント性が受けて、今や両国でも、ハロウィーンという行事と単語が一般化しています。
今日は、そんな魔物が跳梁跋扈するハロウィーンにふさわしい名曲、シューベルトの歌曲「魔王」を取り上げましょう。歌詞の物語では、疾走する馬の上で、父親に抱きかかえられている子供が、魔王のささやきに乗って冥界に連れ去られますが、曲自体は、ハロウィーンの晩のお化けさながら、挫折にもめげず、見事によみがえった曲なのです。
瞬く間に完成させた歌曲
生涯を市井の貧しい作曲家として過ごしたシューベルト。彼が、この最も知られた歌曲、「魔王」を作曲したのは、わずか18歳の時でした。大文豪ゲーテの詩を朗読していて急に楽興が盛り上がったシューベルトは、友人の目の前で瞬く間にこの歌曲を作曲し、完成させたといわれています。
けれども、まだ若く、作曲した作品はすでにいくつもあったものの、全く無名のシューベルトに、この曲を出版して世の中に広く知ってもらう方法は全くありませんでした。世に埋もれていたかもしれなかったのです。
家も、作曲するピアノも、お金もなく風采も上がらないシューベルトでしたが、友人には恵まれていたのです。住むところのないシューベルトを家に泊め、ピアノのない彼に所有するピアノを提供して作曲してもらい、さらに、彼の曲を演奏する「シューベルティアーデ」と名付けられた演奏会を同じ考えの仲間たちと主催する・・・こういった友人たちに、彼は囲まれていたのです。
そんな友人たちが、「魔王」をほっておくわけがありません。麗々しい序文をつけて、まず詩の原作者であるヴァイマールのゲーテに楽譜を送ります。
・・・しかし、大文豪ゲーテのもとには、日々いろいろな献呈や売り込みがあるわけで、シューベルトの「魔王」も、ゲーテの音楽顧問によって、軽くあしらわれて、相手にされませんでした。ゲーテ自身も、聞いたらしいのですが、表現が暗すぎたせいでしょうか、あまり好みではない、と積極的に評価しなかったのです。同じ「魔王」を題材にした、ライヒャルトという作曲の作品のほうが好み、と言ったようです。
めげなかった友人たちの努力の結果
・・・・しかし、シューベルトの友人たちはめげませんでした。お金がなく自費出版をすることができないシューベルト本人に代わって、ライプツィッヒにある名門出版社、ブライトコップフに清書した楽譜を送付します。
・・・しかし、やっぱりここでも評価されませんでした。さらに間の悪いことに、「当社は貴殿の楽譜を出版しないことに決定いたしました。」という拒絶の手紙と楽譜を、ウィーンにいたフランツ・ペーター・シューベルト本人ではなく、ドレスデンで活躍中の29歳年上の作曲家、フランツ・アントン・シューベルトに送り返してしまったのです。ミドルネームを書くのは一般的ではないので、両方とも「フランツ・シューベルト」ということになり、出版社の担当者が同姓同名の、より有名な赤の他人に、勘違いして送ってしまったのですね。楽譜と手紙を受け取ったドレスデンのシューベルトは、「私の名を騙って、こんな駄作を出版しようとするなんてけしからんやつだ!!」と激怒の手紙を出版社に送り返したそうです。
・・・・しかし、シューベルトの「魔王」が駄作でなく名作であるのは、みなさんご存じのとおりです。こういった騒動にも、めげず、友人たちが努力した結果、ウィーンの音楽好きが集まる音楽会で演奏され、その機会に内輪向けの出版楽譜に掲載され、さらに後日、ウィーンの劇場で演奏されるとすぐに評判となり、一般向けの楽譜としてついに出版されることになると、瞬く間に数百部が売れ、シューベルトに名声と経済的利益をもたらしたのです。結果的に、シューベルト作品で、最初に公に出版された楽譜となり、最初に作曲された作品ではないのですが、「作品番号 1」をつけられました。ラテン語の「作品」という単語オーパス(Opus)に由来するクラシック音楽の番号は、出版順につけられるのです。
市井の人々が評価したことによって、シューベルトの代表曲となった、「魔王」、現在では日本の教科書にも載っていますが、ゲーテも、シューベルトの死後に再び聞いて、今度は打って変わって高く評価したとのことです。
本田聖嗣