モーツァルトの大急ぎの仕事、交響曲第36番「リンツ」と同第37番の顛末

   先日、来日したウィーン・フィルの演奏に接することが出来ました。音楽の都ウィーンにあって、音楽的伝統を守り続ける世界に名高い名門オーケストラが演奏したのはウィーンにゆかりの深い作曲家たちの作品でした。今日はその中からモーツァルトの交響曲を一つと、もう一つの交響曲の物語をとりあげましょう。

    ウィーン・フィルが演奏したのは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲 第36番 ハ長調 K.425で、「リンツ」という愛称で知られています。モーツァルトの交響曲は、このほかにも、「ハフナー」、「プラハ」、「ジュピター」などいくつか愛称で呼ばれるものがありますが、これらは本人が付けたわけではなく、後世の人間が勝手に名付けたものです。


モーツアルトの肖像
モーツアルトの肖像
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大量の手紙が残されたおかげで分かったこと

   電話もメールもなかった時代、人々は、実にこまめに手紙を書きました。モーツァルトも短い生涯の間、大変な数の音楽作品を残しただけでなく、膨大な手紙を書いています。後世のわれわれにとってありがたいことに、モーツァルトの死後、彼の業績をまとめて世の中に喧伝し、有名にしようとした未亡人コンスタンツェなどによって、比較的手紙が良好な状態で保存されたため、私たちは、そこからモーツァルトの足跡をたどることが出来ます。

   それによると、父親の反対を押し切って、故郷ザルツブルグのポストをなげうって、帝都ウィーンで活躍していたモーツァルトは、1782年、これまた父に反対されていたウェーバー家のコンスタンツェと結婚します。しかし、大恩人である父や故郷の人との関係修復を考えたモーツァルトは、1783年、新婚旅行の目的地をザルツブルグにしたのです。欧州全域を演奏や就職活動のために旅したモーツァルトにとっては、「近場の旅行」でしたが、ザルツブルグからウィーンに帰る途上、リンツに立ち寄ります。そこで、ウィーンでのパトロンでもあったトゥン伯爵に熱烈な歓迎を受け、演奏会で披露するシンフォニーの作曲依頼を受けたのです。故郷の父へは10月31日付で、その演奏会が11月4日であることを伝えているので、これが真実なら、交響曲をまるまる1曲、わずか3日で作曲したことになります!

   これが、現在「リンツ」の名で、知られている交響曲第36番です。ハ長調という明るい調性で始まるこの曲は、新妻を父に披露し、ウィーンに帰る途上、旧知のパトロンにリンツで歓迎され仕事を頼まれ、張り切っている様子が目に見えるようです。

交響曲第37番にまつわる奇妙な事実


ミヒヤエル・ハイドンの肖像

   話は変わりますが、モーツァルトの死後、コンスタンツェが管理していた遺品の中から、交響曲が1曲見つかりました。ウィーンの楽譜編集者がそれを見て、上記新婚旅行の帰途にリンツで大急ぎで作曲した交響曲だと推定し、第37番の呼称を与えてしまったのです。

   ところが、後になって、奇妙な事実が判明しました。第37番は、第1楽章の冒頭のゆっくりしたアダージオ・マエストーソの部分・・・序奏と言いますが、交響曲の第1楽章の出だしに序奏を置くのは、モーツァルトが上記第36番で初めて取り入れたスタイルで、先輩の大作曲家、ヨーゼフ・ハイドンのスタイルの影響だといわれています・・・この序奏部分こそモーツァルトの作品であるのは間違いないものの、その部分が終わった後、すなわち、1楽章のテンポが速くなるアレグロ部分から、最終第3楽章の終わりまで、そっくり他人の作品であることが筆跡の違いなどから解明されたのです。序奏を除く、交響曲の大部分の真の作曲者はミヒヤエル・ハイドンでした。ウィーンで活躍した兄ヨーゼフほど有名ではありませんが、モーツァルトの故郷ザルツブルグに居を定め、兄と同じようにモーツァルトのよき理解者であった作曲家です。序奏こそモーツァルトオリジナルではあるものの、大部分はM.ハイドンが、ザルツブルグ州のミヒヤエルボイエルン修道院(先週登場したバイエルンのボイエルン修道院とは違うベネディクト派の大修道院です)の新院長就任を祝って作曲した作品である以上、他人の作品、ということで、現在はモーツァルトの交響曲第37番は欠番となっています。

   現在とは著作権概念も、交響曲の定義も違う時代のことですから、こういうことがしばしば起こりました。実は、新婚旅行でモーツァルトがザルツブルグを訪れたとき、ミヒヤエル・ハイドンには作曲依頼が集中し、モーツァルトがいくつかの作品を作曲して、彼に提供したことがあったのです。そして、どうやら「第37番」とされた交響曲は、ウィーンに帰京したモーツァルトが、今度は作曲の依頼が殺到したときに、M.ハイドンの交響曲を「拝借」したらしいのです。というのも、当時は、交響曲は現代のようにメインプログラムではなく、前奏曲や序曲、またはエンディングテーマのように、メインプログラムの前後に、時には楽章を分けて、あたかも「額縁」のように演奏される曲だったのです。そのため、モーツァルトとしても交響曲は作曲を後回しにしていて、演奏会に向けて曲が足りなくなった時に、序奏だけ作曲してM.ハイドンの曲を使いまわさせてもらう、という荒業に出たのだと、現在では考えられています。

    旅の途上で、交響曲第36番「リンツ」をたったの3日、多く見積もっても5日で書き上げたのに、本拠地ウィーンで作曲依頼が殺到したときには、さすがのモーツァルトもすべてを作曲できなかったのかも・・と考えると、かの天才も少し人間的に思えてきますね。

本田聖嗣

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