障害福祉論議を開かれた、理に適ったものにする社会的基盤とは
■『障害者の経済学』(中島隆信著)
■『障害を問い直す』(松井彰彦、川島聡、長瀬修編著)
統計によれば、我が国における障害者の方々の総数は788万人にのぼるという(人口の6%以上)。この数字を聞いてどう感ずるか、読者ひとりひとり違うだろうが、案外多いと感じた方も少なくないのではないか。障害福祉の問題は、不遇な方々の権利や生活保障にかかわる事柄であり、国や社会のあり方にかかわる根本問題であることは疑いの余地がないが、こうした数字に接することで、量的な意味でも、広く国民一般が関心を寄せて然るべき問題であることがわかるのではないか。
『障害者の経済学』(2011年)で中島氏は、障害福祉についての書籍は、障害者を取り巻く方々から発信され、福祉関係者の間だけで流通しているものが多いと指摘している。『障害者の経済学』は、経済学という普遍性の高い道具により障害福祉を語ることで、障害福祉についての議論の多様性を高め、広い層からのアクセスを確保することに貢献する。
『障害者の経済学』(中島隆信著)
障害福祉サービスの特質を経済学的見地から明らかにする
我が国の障害福祉は長く続いた行政から福祉を「措置」する制度から、利用者がサービスとして福祉を選択する仕組みに転換している。一方、障害者自立支援法を機に導入が図られたサービス対価の一部自己負担は、大きく後退し、実質的には負担のないままにサービスが供給され、需要される特異な市場になっている。
医療や介護をめぐる議論では、民間市場との対比から、患者等からみれば、低負担かつフリーアクセスのもとで過大な需要が許されてしまい、医療機関等からみれば、出来高払いや情報の非対称性のもとでサービスの過剰供給を制約するものがない、という問題が指摘されている。障害福祉では、ほとんど自己負担のないまま、サービスへのアクセス制限を取り払い、多様な主体がサービス事業者として参入してきており、問題の深度は医療・介護の比ではない。障害者向け予算はこの10年で二倍ほどに増えているというが、果たして、本当に障害者の方々の福利が相応に高まっているのかみえてこない。
中島氏はこうした特質を持つ障害福祉の世界に経済学からアプローチすることで、表に出てこない潜在的問題の所在を明らかにしていく。たとえば、我が国では親の権限が過度に強いことから、障害者の福利との間に潜在的にコンフリクトが生じていると指摘している(例えば、終の棲家を求める親の希望と障害者本人の希望は同じとは限らない)。障害者差別を解消するためには、障害者が「かわいそうな」人たちではないと自ら示し、「障害者」という身分をなくす必要があると述べている。さらに、障害者の就労支援に関して、「障害者施設の抱える最大の問題は、障害者自立支援サービスの質的向上を図るインセンティブが弱いという点である。職員の給与は行政から支給される自立支援事業の助成金によって賄われ、障害者が施設で従事している仕事内容には依存しない。障害者の生産性を向上させ、工賃を増やしても職員の給与が増えることはない」としている。さらりと書かれているが、これは実に重たい指摘である。安い工賃で障害者の方々を漫然と囲いつづける状態に施設が安住してしまう仕組みがあるというのだ。
これら指摘は、福祉を取り巻く人々をことさらに神聖視せず(同時にとりたてて悪意を持つものとみることもせず)、等身大の人間としてみることで、その利害の調和・対立を構造化して呈示する、経済学者ならではの立ち位置からもたらされるものであろう。
「障害の社会モデル」とゲーム理論
『障害を問い直す』(松井彰彦、川島聡、長瀬修編著)
『障害を問い直す』(2010年)もまた、ゲーム理論などで業績のある経済学者である松井氏と障害学の研究者の共同作業を通じて編まれた論文集である。
論者たちは様々な指摘を行っているが、共有された論点のひとつが、障害を障害者本人の個人的、医学的な問題とするか、社会の側から(あるいは社会との関わりから)生ずる問題と考えるかという点である。例えば、足の不自由な方を考えた場合、医学上の足の機能の損失に着目するか、それともバリアフリーにはいまだ遠い社会の側にある問題と解するか。障害学の論者からは、おおむね、前者の「障害の医学モデル」から後者の「障害の社会モデル」への移行を図るべきだ、との考えが示されている。医学モデルが障害を個人の問題として障害者本人に封じ込めがちなのに対し、たしかに社会モデルに基づく方がバリアフリー投資などの対策は進めやすくなるだろう。
松井氏はゲーム理論の成果を援用しつつ、(たとえ機能に差がなくても)差別行為を通じて偏見が生まれるメカニズムを分析している。こうした知見に基づき、「自立できない人」と一言で言うことに問題があるのであり、考えてみれば、我々はみな電車に乗らないと通勤もできないという意味で、人に頼って生きているのだから、できる限り、社会における「ふつう」の範囲を拡大し、「ふつうではない」という烙印を解消していくことを提唱する。ゲーム理論と障害学という異色の組み合わせを通じ、障害福祉を巡る論議が広い層からの関心を集める、「ふつうの議論」になることを期待したい。
「障害の社会モデル」の一層の基礎づけが必要ではないか
経済学からバックアップを受けつつ、『障害を問いなおす』では、「障害の社会モデル」の標準理論化と精緻化が図られているわけであるが、同時に評者は、「障害の社会モデル」の一層の基礎づけが必要だとも感じたことも書いておきたい。
障害問題の真の所在が社会にあると唱えてみたところで、バリアフリー投資に追加費用がかかるのは厳然たる事実である。バリアフリーを必要とする人数が一定のマスに達するのであれば、投資は経済合理性を持つものとして実行されるか、あるいは、政治過程を通じた規制・補助金などを通じた誘導という途がひらける。ただ、マスに至らない障害の場合はどうすればよいのか。問題の所在は社会の側にあると唱えるだけでは、具体的処方箋が出てこない。レアな障害に対応するものであっても、多額の投資は強行されるべきだろうか。あるいは、レアなタイプの障害者は受忍すべきなのか。「障害の社会モデル」は運動論として機能しているのかもしれないが、現実の障害福祉制度をポジティブに構築する指針としては充分とはいえない。
障害福祉の存在根拠を詰めて考える必要がある。その際の支えになるのが哲学ではないか。例えば、ロールズの「無知のベール」の舞台装置においては、各人が持つ能力までもが本人に本来的には帰属しない偶然天から降ってきたもののように扱われる。能力(障害)は人間共通のプールに帰属し、各人には偶然的に配分されるに過ぎないのであるから、不遇な者の処遇を優先する彼の主張は、「障害の社会モデル」にはないもっともらしさを得る。ドゥオーキンの「責任と補償」の議論もまた、「無知のベール」の仕掛けと結びつくことで、「仮想的保険市場」というアイデアを生みだしている。障害を負って生まれてくるリスクを事前(出生前)に踏まえて、そのリスクをカバーするためどの程度保険料を払う意思があるのか。こうして集められた保険料が障害福祉の財源となる。
基礎的な議論に踏み込むことの利点は、障害福祉の正当性、もっともらしさを高めることにとどまらない。同時にその限界を明らかにすることにある。能力が人間共通のプールに本来所属すると聞かされたところで、実際に人々がそう納得するかどうかは別問題である。ロールズのロジックが保障する障害福祉の水準は、共同体の一体感の度合いによる制約から自由ではない。現に我々は国内の障害者にはそれなりの支援をしているが、国外の例えばアフリカの障害者には僅かなことしかしていない。「仮想保険市場」は障害福祉の根拠を保険という考えにより合理的に説明するが、他方、過度に高い保険料の支払いは避けられるであろうから、自ずと障害福祉の水準を限界付けているのである。個々の理論の適否は別途紙幅を割いた検討を要するが、基礎づけに踏み込むことで、はじめてあるべき制度の射程と限界がみえてくるのである。
はじめに述べた通り、障害福祉の問題は広く国民一般が関心を寄せて然るべきものである。経済学さらには哲学など普遍性の高い分野との対話を通じ、議論の多様性を高め、障害福祉論議が開かれた、理に適ったものとなることを期待したい。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion