南ドイツ、バイエルンの中世と20世紀が交錯するオルフの勇壮なカンタータ「カルミナ・ブラーナ」
10月になって日本もぐっと秋が深くなってきましたが、ヨーロッパの各地はこの季節になると日本にもまして秋の気配が濃厚になってきます。そんな9月下旬から10月にかけて、南ドイツ・バイエルン地方では、有名なお祭り、「オクトーバーフェスト」が開催されます。今日は、オクトーバーフェストの地、ミュンヘンの作曲家、カール・オルフの代表作、「カルミナ・ブラーナ」を取り上げましょう。
作曲者オルフの肖像
修道院で見つかった中世宗教者たちの詩歌
ビール醸造の本場で開かれるオクトーバーフェストは、大量のビールが消費されるお祭りとして有名ですが、「カルミナ・ブラーナ」の第2部は「酒場で」という題名が付いています。ビール醸造の技術は修道院が伝えてきましたが、「カルミナ・ブラーナ」は修道院とゆかりの深い曲なのです。
1895年、南ドイツのミュンヘンに生まれたオルフは、ミュンヘンの音楽学校で学んだあと、ドイツ各地の劇場で指揮者や合唱指導者としてキャリアを積みます。同時に作曲や編曲も行っていますが、彼の関心は19世紀の作曲家たちがつくったような交響曲やソナタといった器楽にはなく、劇などの身体を動かす芸術との融合でした。そのため、彼の初期作品は、初等音楽教育などにもちいられる、体を動かしつつ音楽を学んでいく教育音楽でした。20世紀クラシック音楽は、ロマン派の時代が終わり、調性の放棄や、形式にとらわれない作品など、様々な発展をしてゆきますが、オルフもまた独特な路線を目指した一人だったのです。
オルフの地元であるバイエルンにボイレン修道院というベネディクト派の歴史ある修道院がありました。19世紀初頭、ここが国有化されることになって、図書室の蔵書が調査されると、おそらく11世紀から13世紀ごろまで、この修道院を訪れたと思われる様々な宗教者たちの手によって作られた、詩歌集が発見されたのです。それらはラテン語、中世のドイツ語方言、古フランス語、古イタリア語など様々な言語で記されていて、修道院の蔵書なのに、内容は、恋の歌や酒の歌、そして社会への怒りや愚痴など、とても世俗的なものばかりでした。修道院を訪れた若い学生や修行僧たちが書き残したと思われる、現代にもそのまま通じる内容が多いこの詩歌集はボイレンの歌、すなわちカルミナ・ブラーナと名付けられました。
全部で300篇にも及ぶ中世の遺産を1934年に目にしたオルフは、大変創作意欲が刺激され、24篇を選んで、曲をつけて、大規模な世俗カンタータとすることにしたのです。大オーケストラに、3人のソロ歌手、混声合唱に少年合唱を必要とし、音楽と劇の融合を目指した彼のことですから、さらにバレエも加わった編成が「正式版」となりました。
誰もが一度は耳にしたことがある「運命の女神」
『運命の女神』が運命の車の前に座っている様子が絵でも描かれた修道院の写本
カルミナ・ブラーナは、もともと長い期間にわたって修道院に蓄積された時代も身分もまちまちな人たちのさまざまな言葉がもとになっていますので、オルフはそれを1つのカンタータにするために構成も考え出しています。第1部「春に」、第2部「酒場で」、第3部「愛の講義」と大きく3部に分けられた中にさらに細かい曲が配置されますが、特徴的なのは、それに付け加えて、最初と最後に、「運命の女神、フォルトゥナよ」という激しい合唱曲が演奏されることです。この曲は単独でも演奏され、大変有名で、数々の映画やドラマ、CM、さらにはスポーツ選手の登場曲などの「運命的な」場面で使われることが多く、誰もが1度は耳にしたことがある「カルミナ・ブラーナ」を象徴する曲となっています。
この曲が完成したのは1936年、初演は1937年で、ドイツは既にナチス政権下で戦争に突き進んでいました。政治が音楽に介入した当時のドイツですから、オルフは、政権を刺激しないように慎重に上演をしましたが、ドイツ国外に知られるようになるのは、戦後もしばらくした1950年代になって録音が国外に出回ってからでした。しかし、繰り返しが多く、リズムもクラシック離れして大変力強いビートを持ったこの曲は、ナチス時代のドイツで演奏されたことが、当時の状況を思い起こさせるとして、演奏を積極的にしない演奏家もいます。不穏な時代の空気の中、オルフはそのことを予見していたのか、まさに曲自体が「運命の女神」に翻弄されたのです。
しかし、中世の写本がテキストではあるが、シンプルかつリズミックなクラシック音楽としては斬新な「カルミナ・ブラーナ」は、21世紀の現在、大変人気のある20世紀音楽となっています。1曲目だけが突出して有名ですが、全曲を通して聴くと、さらに味わいが増します。
本田聖嗣