都会のど真ん中に生まれた小粋なパリジャン、プーランクの悲しみを湛えた「クラリネット・ソナタ」
先週は、ロンドンに生まれたが、都会の水が合わず、イングランドの田園に隠棲したフィンジをとりあげましたが、今日登場する作曲家は、対照的に、パリのど真ん中に生まれて、おしゃれなパリジャンという形容がぴったりな、パリとフランスを愛した作曲家、フランシス・プーランクの作品を一つ、取り上げましょう。クラリネット・ソナタです。
パリ中心部、プーランクの生家跡に掲げられたプレート
ガキ大将と聖職者が同居しているような
裕福な化学工業会社を経営する一族の出身、プーランクは、パリの大統領宮殿と内務省から徒歩数十秒という中心部に1899年に生まれています。先週のフィンジと同じく、20世紀前半の波乱の時代を生きているわけです。恵まれたファミリーの出身の故か、彼は小さいころから一流芸術家たちとサロンなどで交わり、ピアノを当時フランスで大活躍していたスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニエスに師事したり、のちに、ジャン・コクトーによって「6人組」というメンバー名で呼ばれるようになる作曲仲間、ジョルジュ・オーリックや、アルチュール・オネゲルという友人たちとも出会っています。社会的・経済的に恵まれた環境にいたせいか、彼は音楽職業人を目指す人が必ず挑戦するパリ音楽院には進んでいません。実業家の父の反対もあったようですが、音楽院に行かなくとも、周囲に、教授陣やまたはそれ以上の音楽家がいた、ということもあるようです。20歳を過ぎてから、やはり後に6人組の仲間の一人となるダリウス・ミヨーの勧めもあって、個人的に作曲をシャルル・ケックランという作曲家に習っています。
彼の作風は、一言で言えば「パリの洗練と洒脱、そして時々深い祈り」。数多くの詩人、コクトー、アポリネール、エリュアール、マックス・ジャコブなどの詩をもとにした歌曲は、フランスのエスプリとしか言いようのない皮肉や諧謔があり、それは最初のオペラ「ティレジアスの乳房」にも反映されています。一方で、2作目のオペラである、フランス革命時にギロチンの犠牲となった修道女たちを描く「カルメル派修道女の対話」や、悲しみを湛えた合唱曲「黒衣の聖母への連祷」など、宗教的、もしくはもっと深く瞑想的と言ってよいような、フランスの長いカトリックの歴史を垣間見せるようなシリアスな作品も残しています。
その両極端の作風は評論家をして「ガキ大将と聖職者が同居しているようだ」と言わしめました。
輝きを取り戻せないパリのノスタルジー
晩年のプーランク
今日の1曲、クラリネット・ソナタも、そんなプーランクの二面性を端的に表している曲と言えます。ピアノとクラリネットという2つの楽器が、ふざけあうように諧謔的に始まったかと思うと、悲哀を感じさせるしみじみとしたメロディーをクラリネットが奏でます。気まぐれに楽想を替えつつ、最後まで、快活さを湛えた曲なのですが、聴き終わるとどこかメランコリーな気分になります。
この曲は、プーランクの最晩年に書かれ、最後のソナタとなった曲なのです。直接的には、6人組というグループの仲間であり、かけがえのない友人だったオネゲルの墓前に捧げられた曲なのですが、クラリネット・ソナタという曲の形式は、サン=サーンスやブラームスなどと同じく、人生の最晩年・・・プーランクにとっては死のまさに直前に作曲されているため、彼自身の人生の回想が込められているような気がしてなりません。
一見華やかに見えるパリとパリの文化は、20世紀前半に苦難の時代を経て、ついに19世紀後半の輝きを取り戻すことはなかったわけですが、プーランクのこの曲にも、そんなノスタルジーを感じる部分もあります。夏が終わり、秋の入り口のこの時期に、しみじみと聴きたい曲です。
プーランクはこの曲の初演を見ることなく亡くなりました。1963年、彼の死から3か月後、初演されたのは、フランスを2度の大戦から救ってくれた国、アメリカはニューヨークでした。演奏者は、クラリネットがベニー・グッドマン、ピアノがレナード・バーンスタインという、20世紀アメリカを代表する2人でした。
現在では、クラリネット・ソナタの代表作品の一つとして、数多くの音楽家が演奏する重要なレパートリーとなっています。
本田聖嗣