都会の水になじめず、田園に暮らしたイギリスのフィンジのシェイクスピア歌曲集
ヨーロッパの国の中では、島国であり、雨が比較的多い天気で、英語が公用語で、日本人にとってもなじみやすい国、イギリス。フランスと同じように、ロマン派の時代はドイツ・オーストリアに対し劣勢でしたが、近代になってから素晴らしい作曲家を輩出しています。
今日はそのうちの一人、ジェラルド・フィンジの歌曲集を取り上げましょう。
近年、再評価が進んでいるフィンジ
現在はEU離脱のニュースに揺れるイギリスですが、クラシック音楽においては、イタリア・ドイツ語圏に大きく水をあけられているだけでなく、フランスと比較しても音楽史的には有名作曲家の少なさが指摘されるイギリスですが、近年再評価が進んでいます。フィンジもそんな一人です。
ジェラルド・ラファエル・フィンジは、1901年7月14日に裕福な船舶仲介業者の息子として、ロンドンに生まれます。父はイタリア系、母はドイツ系のユダヤの家系でしたが、本人はあまり意識することがなかったようです。19世紀末から20世紀前半にかけての激動の時代、音楽的・芸術的な才能を持ったユダヤ系の人たちが、主にヨーロッパの東から西へ、または海を渡ってアメリカへと移動しましたが、フィンジの両親は音楽には一切関係のない生活でした。そんなフィンジですが、父親を彼がまだ8歳の時に亡くします。一家はハロゲイトに移り、そこの教会で、音楽教育を受け始めます。彼を指導した作曲家にして鍵盤楽器奏者、エルネスト・ファーラーによると、フィンジは「とても詩的情緒にあふれているが、恐ろしくシャイな子供」だったそうです。時はあたかも第1次大戦中、ファーラーは西部戦線に出征して銃弾に倒れます。同時にフィンジは、兄弟も失いました。身近な人の死に次々に向き合うこととなったフィンジは、もともとシャイな子供でしたが、ますます、内向的になります。
リンゴを保存栽培しながら歌曲をつくる
そんな彼が、慰めを見出したのは詩人たちの詩でした。トーマス・ハーディーやトマス・トラハーンといった詩人の作品を気に入り、彼らの詩に曲をつけていく歌曲の分野はフィンジの大きな活動の柱となります。
ファーラーの死後、ヨークやロンドンで学んだフィンジは、ロンドンで出会ったイギリスの有名作曲家、ヴォーン=ウィリアムズと生涯にわたる友情を結び、彼の紹介で、王立音楽院の講師の職にも就職することができました。結婚もし、順風満帆に思えましたが、シャイなフィンジにとって、ロンドンは喧噪すぎる都会でした。時は1930年代、再び戦雲が近づいてきつつある中で、フィンジは音楽院の職も辞し、ロンドンを離れて、バークシャー州のオルドボーンというところに引っ込みます。そこで、絶滅してゆくイギリス在来種のリンゴの保存のための栽培などにも精を出しながら、作曲も続けてゆきます。
再び戦争が近づいてきた1938年、フィンジは、イギリスが誇る大作家、シェイクピアの様々な戯曲から引用した詩をもとに、5曲からなる歌曲集「花束をささげよう」を作曲します。フィンジは20世紀の作曲家ですから、完全に「現代音楽」の時代に生きているのですが、彼の曲は親しみやすく、どこか懐かしいメロディーと、それに寄り添うクラシカルな中にも斬新なテイストの入った伴奏が、独特の世界を醸し出しています。近代イギリス歌曲は他の作曲家も含めて傑作の宝庫なのですが、フィンジ作品はその中でも個性的なのに、普遍的な、不思議な魅力を持った作品です。私がピアニストの視点から見ても、「無駄な音が一つもない」完璧性と、「少ない音で新しいハーモニーを引きだしている」斬新性と、「歌詞と歌が密接に関係し、ピアノも第2の歌手として歌を歌っている」抒情性が素晴らしく、間違いなく近代歌曲の傑作と言えます。
数あるフィンジの歌曲集の中でも、「花輪をささげよう」は長すぎず、とても聴きやすく、入門編としてもおすすめの歌曲集です。(9月27日は、1956年、55歳で彼が亡くなった日です。)
本田聖嗣