フレンチ・バロックを代表する作曲家、クープランが描いた、ヴェルサイユの生活模様
先週は、ドイツ・バロック最大の作曲家、J.S.バッハの「フランス組曲」をとりあげましたが、今週は、本場フランスで活躍した作曲家、フランソワ・「大」クープランの鍵盤楽器のための作品を取り上げましょう。
ピアノの先祖と言える楽器、チェンバロはフランス語で「クラヴサン」と呼ばれますが、今日の曲集は「クラヴサン曲集」と名付けられています。
太陽王ルイ14世に認められる
J.S.バッハも、北東ドイツで音楽家をたくさん輩出した「音楽家家系」の出身でしたが、今日の主人公、フランソワ・クープランも、代々パリのマレ地区と呼ばれる地域にある、サン・ジェルヴェ教会のオルガニストをつとめる「クープラン家」の出身でした。一族は200年弱、音楽家を輩出しつづけたので、同姓同名の人間も多く、今日の主人公の叔父も「フランソワ・クープラン」という名前だったため、区別するために、「大」クープランと呼ばれています。単に「フランソワ・クープラン」というと、1668年生まれの、彼のことを指します。
音楽の手ほどきは、当然父親から受けたのですが、その父がわずか10歳の時に亡くなるなど、苦労をします。それでも、18歳の時に、無事にサン=ジェルヴェ教会のオルガニストに就任すると、25歳の時、チャンスがやってきます。太陽王ルイ14世が君臨するヴェルサイユ宮殿のチャペルのオルガニストの席に空きができたのです。音楽と舞踏が大好きだったルイ14世に認められて、ヴェルサイユのオルガニストになったクープランは、以後、教会のオルガンを演奏しながら、宮廷の人々に楽器を教えたり、教会とは直接関係のない宮廷の音楽会で演奏したりしました。その時に用いる楽器は、同じ鍵盤楽器ではありますが、教会から移動できないオルガンではなく、宮廷のどの部屋にも、時には屋外にも運べるクラヴサンでした。現代でも、良家の子女のたしなみとしてピアノを習わせたり、家庭内や親しい間柄の人々の音楽会でもピアノが活躍しますが、大昔の宮廷でも、ピアノの先祖であるクラヴサンは、似たような場面で大活躍だったのです。
昔のヴェルサイユ宮殿を疑似体験できる曲
市民社会が力をつける以前の、16~17世紀のバロック時代、音楽家を雇うのは教会か宮廷でしたが、クープランは、まさにその両方をこなしたわけです。宗教音楽家として、クープランも当然オルガン曲や、モテット(フランス語では「モテ」)と呼ばれる宗教曲などを残しましたが、クープランの名前を高らしめたのは、230曲以上の小曲が全27の組曲を成し、それらすべてが全4巻に分けられた「クラヴサン組曲」です。
バッハも「フランス組曲」「平均律クラヴィーア曲集」のように宗教曲とは離れた器楽曲を残していますが、クープランの場合は、数の点においても質の点においても、生涯の作品の中で、宗教曲より、この巨大な「クラヴサン組曲」のほうが圧倒的な存在感を放っています。あたかも、王権神授説によって宮廷権力を宗教的に正当化しながら、実際は、音楽などを使った享楽的文化の一大サロンとなっていた、フランス宮廷を反映しているかのようです。
「反映しているかのよう」と書きましたが、おそらく、・・・・・この「クラヴサン曲集」は、実際に、ヴェルサイユ宮殿内を反映しているのです。バッハは自作曲にイメージを固定する具体的な表題をつけることを滅多にしませんでしたが、クープランは、自作のクラヴサン曲集に、メヌエットやクーラントといった舞曲の形式名をつけるだけでは飽き足らず、細かく数分程度の各曲に表題をつけているのです。たとえば、「イギリスの貴婦人」、「蜜蜂」、「ナネット」、「いろいろな気分」、「羊飼いの女」、「ブルボン家の女」、「魅力的な女」、「サン・ジェルマン・アン・レ(地名)の楽しみ」「金髪の女たち」、「中国風」、「頓智」、「上品な女」・・・なんとなく女性関連の題名が多いような気がしますが、ヴェルサイユ宮殿の中では、女性たちが重要な役割を果たしていた証拠かもしれません。題名をたどるだけでも、宮廷内とその周辺の生活が見えるようですね。
フランソワ・「大」・クープランはこういったウィットの効いた題名とともに、フレンチ・クラヴサンの華というべき名曲たちを残してくれたのです。王家は滅びましたが、音楽と芸術は残り、王家の周辺の生活の雰囲気を今に伝えてくれています。現在は観光名所となったフランスのヴェルサイユ宮殿には建物と復元された家具しか残っていませんが、クープランの曲を聴けば、当時の宮廷生活を疑似体験できるかもしれません・・。
本田聖嗣