そもそも交響曲とはいかなる存在か? 格調高い"響き"がつくろう曖昧さ
先週は、「交響曲の父」ハイドンの交響曲第45番「告別」を取り上げました。今週は、「交響曲とは何だろう?」ということについて、書いてみたいと思います。
日本のクラシック音楽のジャンルでは、「交響曲」は特に人気のあるジャンルです。日本ではそもそも明治以前にオペラの伝統がなかったわけですから、オペラハウスというものが存在せず、クラシック音楽の大きな柱である歌劇の上演が困難で、一方、器楽合奏のもっとも豪華な形態である管弦楽の演奏会が必然的に盛んになり、その中心曲目として「交響曲」がありがたがられた、ということや、語学の壁を超える必要がない器楽奏者のほうが早く育ったので、日本人の演奏家を集めやすかった、ということなどが原因として考えられます。
今でも、CDショップの「クラシック」のコーナーにゆくと、「交響曲」のジャンルは一大勢力で、習う人の多かった「ピアノ音楽」の棚といい勝負、「オペラ」の棚は近年人気が出てきたとはいえ、まだ「交響曲」にかなわない状況も散見されます。
日本独特の"交響曲"文化
交響曲は絶対音楽ですが、入門用としては、タイトルがある作品のほうが親しまれやすく、定番の「運命」「未完成」などは枚数が多く揃えられています。西洋音楽なのに漢字のタイトルで認識されているところが、とても日本的かもしれません。年末に「ベートーヴェンの交響曲 第9番 ニ短調 Op.125合唱付き」がこれだけたくさん演奏会で取り上げられる国は世界広しといえども日本だけですが、それも「第九」という愛称があってのことでしょう。クラシックを知らない人たちにとっては、「大工」と聞こえてしまいかねないこの呼び方です。「ダイク」の他にも「ベトシチ」「ドボハチ」「マラサン」などと、クラシックファンは略語を好みますが、略される曲は、大抵「交響曲」か「協奏曲」ということになっています。オペラのタイトルで「カヴァルス」とか「シモボカ」とか、題名が短縮して略称で呼ばれることは、少なくとも私は聞いたことがありません...。
日本でこれほど愛されている「交響曲」は、いわばクラシック音楽の代名詞のようになっていて、クラシックが苦手な方は、「交響曲」と聞いただけで拒否反応を起こしてしまいそうです。確かに、「夜想曲(ノクターン)」とか「輪舞曲(ワルツ)」とか「バラード」などは、歌謡曲やポップスでもタイトルに使われますが、「交響曲」は他のジャンルではほとんど登場しません。「星影の交響曲」「哀愁の交響曲」「交響曲を君に」...こんなタイトルのポップスは売れそうにありません。
格調高すぎた?森鴎外の名訳
前置きが長くなりましたが、日本ではさもクラシック音楽の代表ジャンルのような顔をしている「交響曲」って、実態はどんな曲を指すのでしょうか?
語源からさかのぼります。交響曲は、英語でもフランス語でもドイツ語でもイタリア語でも若干のスペルの違いと読み方の差異があるものの、ほぼ「シンフォニー」と呼ばれています。音楽の母国語、ともいうべきイタリア語でSinfoniaと呼ばれ、これが各国語に輸入されたからです。英語だとSymphonyと表記します。これは2つの言葉の合成語です。「シン」の部分が「共に、協調して」という意味合い――これは「シンクロ」の「シン」と同じです――そして残りの「フォニー」は、ギリシャ語由来で、「音」とか「声」といった音楽そのものを指す言葉です。頭に掛ける音楽を聴く道具、「ヘッドフォン」の「フォン」ですね。つまり「シンフォニー」は、「一緒に音を出す」という意味の合成語、造語です。これを「交響曲」または「交響楽」と訳したのは、明治の文豪、森鴎外だそうですが、名訳です。ひょっとしたら「協響曲」とか「同響楽」という訳語になっていたかもしれないわけですが、「交響曲」のほうが、はるかに格調高い雰囲気が漂います。
そう、「交響曲」には、「器楽奏者が一緒に音を出す」という意味しかないのです。
もともと、ルネッサンスからバロック期にかけてのイタリアで、オペラや、音楽附きの演劇を上演する際に、その最初に器楽奏者だけで、演奏した曲が「シンフォニア」と呼ばれたところから交響曲の歴史は始まっています。この時点でのシンフォニアは、器楽奏者のウォーミングアップと、腕前の誇示と、歌劇が始まる気分を高めるために、つまりお客さんをあたためるために演奏された「序曲」のようなもの、だったといってもいいでしょう。
それが、古典派の時代になり、「交響曲の父」ハイドンやモーツアルトの時代になって、交響曲は、オーケストラのメインの曲目となってゆきます。彼らが交響曲のフォルムを固めたのは間違いがありません。そのフォルム――いいかえれば形式――を少し専門的に書くと、「オーケストラで演奏される、少なくとも1楽章にソナタ形式を持つ比較的大規模な曲」となります。
いかにも杓子定規で頭が痛くなりそうなクラシック音楽の定義ですが、多くの方が「ソナタ」は聞いたことがあると思います。ピアノソナタ、ヴァイオリンソナタなどでおなじみですね。日本語では奏鳴曲――これはあまりうまい訳語ではなかったので、ちっとも普及しませんでしたが――と呼ばれるソナタは「提示部」「展開部」「再現部」を持ち、その他にもこまごまと決まりごとがあるような、ちょっとややこしい曲なのです。そんな規則など、聴くほうには関係ありませんよね。
"純粋器楽での長い曲"から...ベートーヴェンが哲学"注入"
なぜ、このような厄介な形式があるかというと、これだけ厄介なことをやっていると、曲が長くなるからです。皆さんも作曲をされてみるとわかりますが、実は、「長い曲を書く」というのは、大変な作業なのです。だから、ポップスなどは、大抵1曲3分から5分程度の曲が多いですよね。交響曲は1楽章だけで10分以上、全体では30分以上の演奏時間が必要、というものが数多くあります。
種を明かせば、古典派初期の作曲家たち――宗教のためでなく、世俗の権力のために曲を書くことが多くなった作曲家たち――に、長い曲の依頼があったために、作られるようになったのがこの時代の交響曲なのです。それまでも、舞曲の羅列で作られる「組曲」や物語を追う歌が入った「オラトリオ」など、長い形式の曲はいろいろ存在しましたが、絶対権力への富の集中や、市民階級の台頭などによって、演奏会に、舞踏や宗教を持ち込まず、純粋器楽での長い曲必要とする欲求が高まり、それに応えて作曲家たちが、管弦楽に「ソナタ形式」と「少なくとも3楽章、大抵は4楽章の複数楽章形式」を持ち込んで、聴くとおなかいっぱいになる「交響曲」を生み出したのです。
それは、既にバロックまでの「シンフォニア」とは似て非なる曲でしたが、適当な題名もないため、「シンフォニー」と呼ばれるがままになったのです。
そして、古典派の後期に、ベートーヴェンという巨人が誕生し、究極の、いや9曲の交響曲を「自分のために」書いてしまったのです。権力からの「長い曲を」という要求ではなく、人類愛に燃えた男、ベートーヴェンが、哲学的ニュアンスを交響曲に込めてしまったため、彼以後の作曲家たちは、自分の哲学を表すには「交響曲を書かねばならない!」と思い込んでしまったのです。
現代では「作曲家が『交響曲』と名付けたら交響曲」に...
以後、交響曲は、4楽章形式や、ソナタ形式といった規則をゆるく保持しつつ、「交響詩」などというサブジャンルも生み出し、数多くの作曲家によって作曲されます。しかし、近代になればなるほど、規則はあいまいで、ただ「その作曲家を代表するオーケストラの大規模な曲」という意味程度しかなくなっているのに、作曲家が「交響曲」と名付ける場合も多く、古典派時点での定義は、完全に役に立たなくなっています。
つまり現代では、「作曲家が『交響曲』と名付けたら交響曲」というまことにいい加減なジャンル名でしかなく、「オペラ」や「協奏曲」といった、現代でも十分に昔の定義が当てはまるジャンルからすると、「交響曲」は、はるかに曖昧な定義づけしか持っていません。
そんな適当な「交響曲」が、クラシック音楽の代表分野として、特に日本では、大きな顔をしているわけです。まことに滑稽な事態ですが、それが、長い歴史の結果なのです。
本田聖嗣