社会保障にとって大切な3条件、誇り・味方・居場所
著者は、元朝日新聞記者(現在は大学院教員)。国内はもとより海外の医療・介護・福祉の現場を歩き、日本の介護を変えたとされる「『寝たきり老人』のいる国、いない国」(ぶどう社)など、「現場」「当事者」の視点から社会保障の変革を求めて発信を続けている。
朝日新聞退社後、「福祉」と「医療」、「現場」と「政策」をつなぐ志の縁結び係を名乗り、毎年4月には「新たなえにしを結ぶ会」を主催するなど、深い溝があるといわれる「福祉関係者と医療関係者」、「当事者・現場実践者と政治家・行政担当者」の橋渡し役として活躍している。
長年、現場に密着し、社会保障の在りようを考え続けてきた著者がたどり着いた結論は、人間にとって欠かせない「誇り」、「味方」、安心できる「居場所」が守られること。本書では、その理由について、①日本のケアの歴史、②内外の現場の実践、そして③著者自身の母の看取りケアの物語を通じて語られる。
ケアの社会化の歩み―一歩進んで、ときどき後戻り―
動物の世界のケアは、親から子への一方通行なのに、なぜ人間だけが介護や介助をするのか。著者の答えは、
「人間だけが、利己的遺伝子の企みに逆らって生きるすべを獲得したから」
本書の第1部では、1970年代に登場した「日本型福祉社会論」以降、日本のケアの思想・文化がどう展開されていったかを辿る。
1973年のオイルショックを契機として、「福祉バッシング」が始まり、日本型福祉社会論(自立・自助を強調し、家族の相互扶助、ボランティアや民間活力の活用を奨励)の下で、福祉予算の伸びは抑えられた。ケアを要する人々は、予算制約の少ない医療保険が受け止めることとなり、雨後の竹の子のように生まれた老人病院や精神科病院に収容されることとなった。
その結果、日本独特の「寝たきり老人」が多数生じることになったという。当時、「寝たきり老人」という言葉は、日本において一般的だったが、欧州諸国を訪ねた著者は、彼の地では、「寝たきり老人」なる日常語がないことを知る。日本なら病院のベッドに寝間着姿で横たわっているような高齢者が、おしゃれをし、車いすに乗り、単身でも思い出いっぱいの自宅で暮らしていたのだ。
日本の「寝たきり老人」とは、実は「寝かせきり」にされ、廃用症候群に陥った犠牲者だったとして、著者は、その代表作「『寝たきり老人』のいる国、いない国」をはじめ様々な機会を捉えて、発信していく。
平成の時代となって状況が変わり、介護の社会化の流れが動き出す。消費税導入を契機として自民党が参院選で大敗北を喫するという政治史上の「事件」がきっかけで、「ゴールドプラン(高齢者保健福祉十か年戦略)」が誕生。これが後の「介護保険」へとつながっていく。
日本型福祉社会論で提起された「自立」概念も、障害福祉分野を中心に、正反対の意味で使用されるようになる。つまり、当事者自身が「主体的」に「自己決定」することを尊重し、「地域」で生活することを基本とする考えだ。
しかし、著者の目から見れば、ケアの世界における、こうした自立概念の転換も後戻りを繰り返しているという。精神病床の大幅削減という世界の潮流から外れ、未だに数多くの精神障害者が精神科病院で暮らしている現状、そして、この精神病床に認知症の人々が多数、入院している状況を憂える。
未だ多くの課題を抱える日本のケアの現場であるが、ケアの社会化が進む中で、世界に誇る独創的な実践も生まれている。
・奇想天外な幻覚妄想を体験した精神障害者がグランプリに輝く「幻覚・妄想大会」で有名な北海道浦河の「べてるの家」
・高齢者、障害者、子どもの区別なく受入れ、利用者自身が担い手となってしまう「富山型デイサービス」として有名な「このゆびとーまれ」
――これらはいずれも、「当事者」を真ん中に置き、「ケアされる側」と「ケアする側」の垣根を超えた実践を行う中で、利用者・提供者双方にとって魅力的な場をつくり出している。
こうした実践にこそ、ケアの未来があるというのだ。
プロフェッショナルたちの実践
本書の第2部では、著者が毎日新聞に2年半にわたり連載したコラム「私の社会保障論」に、写真や図を加えて持論を展開している。
続々、日本の医療・介護・福祉のプロフェッショナルが登場する。
山の上の特別養護老人ホームを解体して、地域包括ケアを実現した施設長、医療事故を「隠さない、逃げない、ごまかさない」を貫いた病院長、在宅ホスピスのパイオニア、在宅口腔ケアの道を切り拓いた歯科衛生士、逆転の発想「バリアアリー」でリハビリに革命を起こしたカリスマ作業療法士など、日本のケアを変えてきた人々の実践が紹介されている。
「一人では何もできない。でも、まず、一人から始めなければ」
「制度があるからやろうはダメ。いいものは国が追っかけてくる」
「理屈や命令では人はまとまりません。感動して仲間意識を持った時、みんな喜んで動き出す」
――など、プロフェッショナルの極意が伝えられる。
第2部で取り上げられている実践の共通点は、「誇り」、「味方」、「居場所」である。一例を挙げれば、東京都内で約1250人のホームレスの支援を行っている自立支援センターふるさとの会。住まいの確保から日常生活の支援、そして在宅での看取りまで、家族のように支える。特筆すべきは、約270人のスタッフのうち約100人が、自らも支援を受ける障害や病気を抱えた人ということ(ケア付き就労)。お互いが支え合うことで、人間としての「誇り」を取り戻している。
こうした日本の社会保障を切り拓いてきたパイオニアたちの実践を受けて、著者はこう語る。
「昔作られた法律の枠を超えたところにこそ、真の福祉があるようです。それを実現するために必要なのは、本人の願いへの想像力と、改革する度胸だと思えます」
「支える人が誇りと喜びをもって働き、支えられる人の誇りが守られる時、日本の社会保障制度は質と継続性を保つことができる」
母の看取りケアの経験―介護保険の枠内でデンマーク並みのケアが可能に―
第3部では、「末期がん、まだらボケ、要介護四」、「余命あと一か月」と言われた著者の母(享年95)が、4年半にわたって、自宅で様々な在宅サービスを受けつつ、旅立つまでの経験を語る。
退院直後は、母自身、「よその人が家に入ってくるなんでとんでもない」と言い張っていたそうだが、実際にホームヘルパーさんから足湯ケアなどを受けるうちに、すっかり気に入ってしまったという。
慣れ親しんだ自宅での生活は、病院とは大違い。病院では患者そのものだった母が、自宅ではよちよち歩いて台所に行き、皿を洗い始めたり、福祉用具専門相談員がトイレのドアを外し、手すりを取り付け、高さを調節すると、自分でトイレが使えるようになった。病院でオムツをつけていたときとは全く見違えるようになったそうだ。
著者曰く、「あと一か月」が「四年半」にも伸びたのは、「なじんだ家」の力ではないかとのこと。
著者の母を支えたのは、様々な「プロフェッショナル」と「商店街のみなさん」。
専門職として、かかりつけ医、ホームヘルパー、訪問看護師、ケアマネジャー、歯科医師・歯科衛生士、かかりつけ薬剤師、リンパドレナージの専門家など大勢のスタッフがケアを担ったが、基本的に介護保険の範囲内で対応できたという。
そして、母が長年暮らした商店街のみなさん(美容院、和食、中華、イタリアン、フレンチ、鮨、さぬきうどん、花屋、ブティック等)も、折にふれて、生活の支えになったそうだ。
「都会でも地域包括ケアが、しかも、介護保険の範囲で、デンマークなみに自宅で人生を全うすることが可能なことを、母は証明してくれたような気がします」
著者が考える「社会保障にとって大切なこと=誇り・味方・居場所」が確信となった経験だったに違いない。
JOJO(厚生労働省)