わが子ら通う教室に望む教師像もかくや その信念と理想の伝承を

■「新編 教えるということ」(大村はま著)

   錬達の国語教師が若手教師に語った講演集である。専門職の職業倫理はどうあるべきか。一格違う覚悟を見せつけられる。職種は違えども読了後に背筋が伸びる思いであった。

    全体の流れがあり迂闊な引用は憚られるが、本書の迫力をお伝えするには、やはり抜き書きが良い。例えば以下の如きである。

教えるということ
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プロの矜持を知る

「本来の学習室である学校を学習室にしないで、『読んできましたか』というのは、『読む』といういちばん大事なことは家庭でやるわけですから、それでは家庭が学習の場所になり、学校は検査室になります。読んできたかどうかをみる検査室、読めるかどうか調べる所、おっかない場所ですね、学校は。私は、そういう教師が多いということを、たいへん強く感じます」
「教師だけはよくまあ言うと思います。『一生懸命指導しましたけれど、お宅のお子さん、どうもうまくおできになりません』 私は、そういうことは、教師として言うべきではない...(中略)...専門職だ、と胸を張って言うのでしたら...(中略)...うまくいかない責任は自分でとるべきであって、相手が勉強しないなどと、そんなことを言えるものではありません」
「そうです。あんなに喜んで、指折り数えて入学してきたのでしょう、子どもは。それが何日かたつと、もう劣等生のレッテルをはられて、親が呼び出されたりするとしたら、私は、『教師の面目いずこにありや』と思わざるをえません」

教師の資質

   学校は常々厳しい批判にさらされている。いじめ自殺などニュースには事欠かず、プライバシー配慮で縛られ釈明もままならぬ学校側の事情を酌むこともなく、報道はともすれば過熱し、一方的なバッシングを引き起こす。

   だが、大村先生のように自らを厳しく律して使命を貫徹する教師は、今も数多くいるに違いない。知られていないだけだ。病理を抉るのがマスコミの仕事であり、物事が上手くいっている限り報道はない。報道されない事実は「世論」には表れない。

   評者は過去、「仮に全世界で『良い教師コンテスト』を開けば、日本の教師がグランプリを獲る」と夢想していたが、本書でその想像は確信に変わっている。だが同時に、「悪い教師コンテスト」を開いた場合の最悪の結果も、残念ながら連想する。教師の資質向上策と不適格者排除の実態はどうか。心許なく思うのは評者のみではあるまい。

学校管理は大丈夫か

   大村先生のような方の存在を知る一方、学校が多忙化しうつ病の教師が増えているとの報に接すると、考えさせられることがある。志ある貴重な人材を、うつ病になるまで放置した教育委員会や学校の責任である。

   不夜城の霞が関でさえ、超勤縮減に手を打たない管理職には疑問符がつけられる時代だ。また部下のうつ病発症は上司らの不手際というのがマネージメントの世界の常識となりつつある。

   教師のうつ病が増えているならば、何より先ず、教育委員会や校長などの学校管理に課題がある。教員配置の組み合わせから分掌の決定方法、職務命令の発出状況、職員団体との慣行まで、チェックするべき点は多々ある。だが、多忙と喧伝される割に、学校管理の実態を分析した論評は聞いたことがない。一体どうしたことか。

先達から学ぶ技術と信念

   大村先生は、生前、鳴門教育大学に諸資料を寄贈されたという。同大学付属図書館はその膨大な資料を整理・保存し、「大村はま文庫」として複製を閲覧に供している。同じ教材を二度使うことがなかったという先生の資料だけに、門外漢ながら興味をそそられる。学外者も利用できると聞くが、国語教育を志す者の聖地となっているのだろうか。

    また読了して振り返ると、仕事を突き詰めると正しい信念が唯一の指針となる、と感じる。そうした信念は、口伝によってしか継承されないのかも知れない。一教師の講演録が出版され、ついには文庫本化された事実がそのことを物語る。

   思えば、霞が関の諸先輩方にはよき御指導を頂いてきた。昨今、若手に遠慮して「説教や昔話はしない」などと恰好をつける風潮があるが、経験知や覚悟の伝承が途切れることを、評者は危惧している。

   新学期が始まる。晴れて御入学の御子弟をお持ちの読者もあろう。子育て中の親として、わが子の恩師の丁寧な御指導を思い出し、本書がひとつの感興をもたらしてくれたことも付け加えたい。

【補論】学校多忙化への対策試案

   余計なことを書けば書くほど、本書の良さからは遠ざかってしまうと感じる。拙い書評は以上で出尽くしである。

   だが学校多忙化への対策は、管理の改善のみでは足りない場合もあろう。蛇足ながら、教師の負担を減らす試案をお示しする。本書評は匿名なので、あくまでアイデア程度としてご笑覧頂ければ幸いである。

(1)IT化による合理化

   まず、校務運営の抜本的なIT化に取り組んではどうか。

   学校は毎年やるべきことが定式化している上、多数の生徒の管理や家庭との連絡など大量の処理が必要な事務も多く、IT化による効率化になじみやすい。

   例えば、児童の欠席は連絡ノートを持参させて確認する学校が今もって多々あるが、メール一本で済ませれば、ノートを確認して出席簿に写し、給食担当に連絡して食数を減らすなどの教師の手間も、共稼ぎの両親がノートを持参する手間も省ける。自らの仕事でITの恩恵を感じられない者がITを活用した教育を求められる矛盾も解消しよう。

(2)首長部局の役割

   次に、行政各部門との有機的な連携だ。

   子供の貧困が深刻になるに伴い、教師がその支援に奔走している実態がある。生徒の家庭を訪問して生活保護の申請方法を教える教師や、家庭で食事もろくに与えられない生徒に食べ物を配る教師の話を何度も聞く。子供への愛情故に、教科教育どころかケースワーカーを買って出る教師の負担を、首長部局は積極的に引き受けてはどうか。公立校の教師には教職調整費という割増があり、他の公務員よりも高給だ。高給者が低い給料の者の本来業務を抱え込むのは人員効率も悪いだろう。

(3)アウトソーシング・集約化

   三番目に、上記(2)を更に進め、学校外に積極的に仕事を移してはどうか。

   給食センターは成功例と思うが、それ以外のアウトソーシングはほとんどない。学校外での非違行為の指導、メンタルケアなどは校内で処理されるが、教科指導という本来業務は塾にアウトソースする動きがある。これは本末転倒で強い違和感がある。

   補導センターが好例だ。警察官と教師のOBが外部から指導していたからだ。荒れた学校の親・生徒には学校不信があるので、センターが間に入って信頼回復を図っていた。だが校内暴力の沈静化と補助打切りで、各県ともセンターを廃止した。現状、困難校に「生徒指導加配」と称する教師の追加配置はあるが、学校不信は教師数で抑えられるものではなく、苦慮する事態もあると聞く。

   個々の学校に点在する事例を現場限りで解決しようとすれば、ノウハウが蓄積されずプロが育ちにくい。集中処理すれば対処の質が向上するのみならず人員効率も上がる。補導センター(名称変更は検討に値しよう)、(メンタル)ケアセンターなどとして複数校で共通する課題を集中処理する体制を作ってはどうか。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

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