ヴォカリーズだったために国境を越え世界的ヒットに...ラフマニノフ「ヴォカリーズ」

   先週は、メンデルスゾーンの「無言歌」を取り上げましたが、これは、もとからピアノソロの曲――つまり器楽曲――として作曲されたもので、器楽曲なのに、メロディアスなメロディを持つところからあえて「歌詞のない歌」という題名がつけられたのでした。一種の「みなし」題名だったわけです。

   しかし、今週取り上げる曲は、正真正銘の「歌詞のない歌」です。ロシアの作曲家、ラフマニノフのヴォカリーズです。歌詞がなくてどうやって歌うかというと、母音だけで歌うのです。「ア」や「ウ」という音だけで歌うのですね。どの母音を選択するかは歌手に一任されています。フランス語の「声を出す」という意味の言葉、「ヴォカリゼ」がもとになり、こういった「母音だけで歌う曲=歌詞のない歌」のことをヴォカリーズと呼ぶようになったのです。どちらかというと、言葉を持つ普通の歌を歌う前に、母音だけという簡単な条件の下で声を出す、というトレーニング曲的な側面も持つヴォカリーズですが、ラフマニノフは大胆にも、本来はジャンル名に近い「ヴォカリーズ」を曲の名前として正式採用したのです。大げさに言えば「ワルツ」という名前のワルツを作った―、というようなものです。

ヴォカリーズの楽譜。ピアニスト、Z・コチシュによるピアノ独奏版
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歌曲集に3年後に追加された「特別な曲」

   ラフマニノフのヴォカリーズは歌曲集の中に収められています。彼の作品番号34の14の歌曲集の最後の曲、つまり第14曲としてヴォカリーズは世に出たのです。もちろん、他の13曲は普通に歌詞がついている歌曲です。1912年ごろの作曲と言われていますが、近年の研究では、この14曲目のヴォカリーズだけが、1915年に3年ほどもたってから作曲されて追加されたということになっています。やはり、他の曲とはちょっと距離を置いた「特別な曲」だったようです。

   歌曲ですから、通常は歌手――高いキーが出てくるので、女性ならソプラノ、男性ならテノールということになっていますが、ほとんど通常はソプラノで歌われます――とピアノ伴奏という編成で演奏されます。オリジナル初版の楽譜もそうなっているのですが、初演時は、ピアノ伴奏ではなく、ラフマニノフ自身のオーケストラアレンジで、つまり管弦楽伴奏で、この曲を献呈されたアントニーナ・ネジダーノヴァというソプラノ歌手によって歌われています。

さまざまな編曲が登場し人気爆発

   20世紀に作曲された曲ではあるのですが、もともと、ラフマニノフは「遅れてきたロマン派」と形容されるぐらいロマンチックな作風を持っていましたし、かつ、この曲は、ラフマニノフがグレゴリオ聖歌や、バロック時代のアリアのスタイルを参考にして、いわばそれらへのオマージュという形で作ったと思われるために、ロシアの哀愁と、古典音楽の端正さを持つ非常に甘美な曲に仕上がっています。ラフマニノフの存命中からこの曲は人気を博し、実に様々な編曲が登場しています。メロディの部分を歌ではなく、器楽、たとえばヴァイオリンやチェロ、フルートやトランペットといった弦楽器や管楽器が演奏し、それをピアノが伴奏するものがたくさんあり、一方で、メロディも含めてピアノだけで弾いてしまう独奏ヴァージョンも何人ものピアニストによって作られています。伴奏の部分も、ラフマニノフのオリジナル以外に他人によって管弦楽化されたものも存在します。現在では原曲の歌+ピアノより、異なる組み合わせの編曲版のほうが演奏機会が多いぐらいです。

   それだけ人気の爆発度合いがすごかった...といってもいいのですが、「ヴォカリーズ」だったことがその一因かもしれません。ロシア語、という他国人には難しい言語を使っておらず、「アー」や「オー」だけで歌われるので、誰にとっても理解しやすかったのです。音楽は国境を超える、とよく言いますが、この曲集の場合、「音楽は国境を超える、言葉は超えられなかった」...と多少シニカルに解釈してもよいのです。全14曲中、世界で愛されているのは、この「ヴォカリーズ」のみなのです。

    パラドックス的ですが、この曲は、言葉がないから、余計なことを考えずに、音楽が直接ハートに届くように聴こえるのです。歌の無い歌が、世界を感動させたのです。

本田聖嗣

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